ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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透明スライムベス

夢とか希望とか幸せとか、まあ言葉としてそんな具体的なものではなくとも、そういうぼんやりとした光の道筋みたいなものに関しては、ぼくはぼくなりに考えているし、手探りではあるが、きちんと這いつくばってそこを歩いている。

 

悪いけれど、まあべつに悪くもないけれど、ぼくなりには歩いている。

 

そう、ぼくなりというものがあるのだ。それを誰かにつべこべ言われる筋合いは、まったくもってございません、と時々叫びたくなるようなシチュエーションというものがある。

 

そう、つべこべ言われる筋合いは、まったくもってないのである。

 

そして誰かの夢や希望や幸せについて、つべこべ口を出すほど、ぼくは野暮でも暇でもない。

 

もしぼくがそれを語るんだとしたら、その時隣にいるただひとりだけ。それでほんと十分。まったくもって十分。もし隣の人が迷惑ではないのなら。迷惑なら多少は遠慮するだろうが。

 

こころに描くことを、少しずつではあるけれど手のひらに包み込んではいる。そういう小さな透明な継続性が、ぼくは夢とか希望とか、あるいは幸せだと思っている。ほんとうのことを言うと、ほんとうはそう思っている。そしてそういうものが、ほんとうのことだと思っている。けっして誰かには見えないことが、ほんとうはほんとうのことなのだ。

 

隣にいるきみは知っているはず、いつもぼくが手のひらの上で転がしている、97パーセントくらい透明の、柔らかくていびつな塊のことを。

 

あれがぼくの夢や希望や幸せで、ほんとうは、ほんとうのことなんだよ。

 

透明スライムベス

 

 

 

 

月白貉