ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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物体フェイスブック

きょう、ちょっとしたFacebookの操作ミスで、この一年くらいにアップした90枚近い写真と、その写真に寄せた言葉が消え失せてしまった。

 

写真は手元に残っているから、またあげなおせばいいけれど、その写真に寄せた言葉は、もう戻ってはこない。

 

たぶん同じ写真を改めてみても、違う言葉が浮かんでくるはず。もとには、もどれない。

 

でもしばらく考えていたら、それはあたりまえのことだなあと、そう思った。

 

毎日、そして毎日、自分の中にはたくさんの言葉や思いが生まれてくる。

 

誰に話そうが話すまいが、それは自然に生まれてくる。時には文字に記すだろうし、言葉に発するだろう。ほとんどは、浮かんできても忘れてしまう。運良く記されていた少しの言葉も、誰の目に触れることもなく、消えてしまう。

 

言葉や思いは、結局、誰かへのものじゃなくて、もしかしたら自分へのものでもなくて、誰のものでもない。じゃあ、べつに消えちゃってもいいじゃないか。

 

何のためのものでもなくて、でも存在はしていたもので、ちょっと愛おしかったもの。そのうち忘れてしまうもの。そして消えてしまう。

 

最初から、なかったものかもしれない。

 

さて、もう眠ろう。

 

物体フェイスブック

 

 

 

 

月白貉