ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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原発アローヘッド

ネット上で何気なく見かけたとあるNPO法人の求人情報の中に、その採用を担当している女性の言葉が書かれていた。

 

その女性も、そしてその法人の代表も福島県の出身で、田舎暮らしを支援する活動をしているという。

 

ここ数年で、現実問題として、福島で、あるいはその周辺で田舎暮らしをしたいと願う人、および相談する人の数は確実に減っていると書いてあった。渦中にはいないぼくからしたら、減っているのはもちろん当然だろうと思う部分もある。だけれど、いったいぼくがその現実のどれだけのことを知ってるのだろうかと、考える。

 

ぼくは想像力が乏しい方ではないと自覚している。けれど、想像していること、間接的に伝え聞いたこと、そういうことと、現実に起こっていることとでは、天と地よりも遥かな隔たりがあるのだろうと思う。

 

まったくレベルの違う話だが、ぼくが昔東京で一人暮らしをしていた部屋に泥棒が入ったことがあった。

 

ただの泥棒ならまだしも、合鍵を持っている人物だった。その部屋を管理している関係者だった。そして、ものは盗まず、ぼくの身分証明をするための書類を一時的に持ち出し、消費者金融で身分を偽って金を借りていたのだ。

 

おそらくは日常的に、ぼくの部屋に入っていた。

 

今となっては、知り合いの間ではちょっとした笑い話として存在するのだろうが、その出来事は、いまでもぼくの心に深く突き刺さっている。

 

その鏃の鉄は錆び付きはするものの、抜け落ちることはなく、突き刺さった部分の肉も同じように腐り、そして、放たれて突き刺さった矢の傷は、どんなに時間を経ても、どうにもこうにも、決して消えないのだ。

 

自分が身をもって知るということは、おそらくはそういうことなんだろうと、青白い影のようなものが頭をよぎった。

 

原発アローヘッド

 

 

 

 

月白貉