ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

follow us in feedly

東長崎フライドチキン

きょう、十数年ぶりに、大学生の時によく利用していた弁当屋に足を運んだ。

 

なじみの弁当屋は二軒あって、でも一軒は店を閉じていた。

 

もう一軒はいまでも繁盛していて、ぼくが利用していた当時のおばさんは、もうだいぶお年をめしていて、「おかみさん」って呼ばれていたけれど、いまでもバリバリ前線で元気よく接客していた。

 

ぼくはその店の、ちょっと濃い口の家庭的な鶏の唐揚げが好きだった。その店の惣菜は、きをてらわない昔ながらの味なのだ。店のカウンターの奥がキッチンになっていて、数人のおばさんと、若手のお兄さんがひとり、せっせと惣菜を作っている。

 

当然、弁当の作り置きなんかしない。

 

並んでいるお客さんに、「すいません、もうちょっとだけ待ってくださいね」って、そう声をかけて、注文を受けてからすべて盛りつけてゆく。誰も文句なんて言いやしない。だって出来たての弁当を一生懸命作っている姿が見えるからだ。当時はたいてい、鶏の唐揚げ弁当を頼んで、一品ものとして、おひたしや、肉じゃがなんかを追加して、夜の酒のつまみにしていた。

 

弁当と惣菜を家に買って帰って食べてみると、今でも、鶏の唐揚げや、ほうれん草のごま和えや、アジの南蛮漬けは変わらず素朴で美味しく、口に含むたびに、少し感慨深くてため息が漏れた。

 

その店は、貧乏な大学生のぼくにはちょっと高めの値段設定だったので、そんなに毎日買っていたわけではないけれど、当時住んでいたアパートから歩いて一分ほどのところにあって、ある意味では、ぼくの台所のひとつだった。

 

そういう店が、近年本当に少なくなっていると感じるのは、果たしてぼくだけだろうか。みんな弁当屋ってものが、本来どういうものか忘れてやしないだろうか。

 

そんなことをなんだかしみじみと感じた日だった。

 

値段競争や大量生産に、どれだけの意味があるのだろう。

 

「料理は愛情!」って、結城貢がしわがれ声で叫んでいたことを思い出す。

 

弁当なんて、その最たるもの。

 

食べてもらう人のことを思わなきゃ、おいしいものなんか絶対に作れない、絶対に。

 

東長崎フライドチキン

 

 

 

 

月白貉