東長崎フライドチキン
きょう、十数年ぶりに、大学生の時によく利用していた弁当屋に足を運んだ。
なじみの弁当屋は二軒あって、でも一軒は店を閉じていた。
もう一軒はいまでも繁盛していて、ぼくが利用していた当時のおばさんは、もうだいぶお年をめしていて、「おかみさん」って呼ばれていたけれど、いまでもバリバリ前線で元気よく接客していた。
ぼくはその店の、ちょっと濃い口の家庭的な鶏の唐揚げが好きだった。その店の惣菜は、きをてらわない昔ながらの味なのだ。店のカウンターの奥がキッチンになっていて、数人のおばさんと、若手のお兄さんがひとり、せっせと惣菜を作っている。
当然、弁当の作り置きなんかしない。
並んでいるお客さんに、「すいません、もうちょっとだけ待ってくださいね」って、そう声をかけて、注文を受けてからすべて盛りつけてゆく。誰も文句なんて言いやしない。だって出来たての弁当を一生懸命作っている姿が見えるからだ。当時はたいてい、鶏の唐揚げ弁当を頼んで、一品ものとして、おひたしや、肉じゃがなんかを追加して、夜の酒のつまみにしていた。
弁当と惣菜を家に買って帰って食べてみると、今でも、鶏の唐揚げや、ほうれん草のごま和えや、アジの南蛮漬けは変わらず素朴で美味しく、口に含むたびに、少し感慨深くてため息が漏れた。
その店は、貧乏な大学生のぼくにはちょっと高めの値段設定だったので、そんなに毎日買っていたわけではないけれど、当時住んでいたアパートから歩いて一分ほどのところにあって、ある意味では、ぼくの台所のひとつだった。
そういう店が、近年本当に少なくなっていると感じるのは、果たしてぼくだけだろうか。みんな弁当屋ってものが、本来どういうものか忘れてやしないだろうか。
そんなことをなんだかしみじみと感じた日だった。
値段競争や大量生産に、どれだけの意味があるのだろう。
「料理は愛情!」って、結城貢がしわがれ声で叫んでいたことを思い出す。
弁当なんて、その最たるもの。
食べてもらう人のことを思わなきゃ、おいしいものなんか絶対に作れない、絶対に。
月白貉