ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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中野ヌードル

今日、ちょっと遅めな朝ご飯を、中野駅前にある立ち食いの店で食べる。

 

店の看板の端に「田舎うどん」と書かれていたので、蕎麦ではなくあえてうどんを頼んだら、まわりはほとんどみんな蕎麦を食べてた。

 

店はその時間、歯が一本しかないおばあちゃんが切り盛りしていたけれど、次々入ってくる客と、世界情勢にまで及ぶような壮大な話題の世間話をする余裕をみせる。

 

前金制のシステムで、サイドメニューやトッピングなどのオプションが実に数多くあるようなのだが、その勘定やおつりの計算もとんでもなく速い。男女のカップルには、勘定は一緒か別かなどの対応も当たり前にしていて、さらにはそのカップルの人相から相性までをも占うという、立ち食いの店を超越した対応だった。

 

もはやその店の主役は、蕎麦やうどんではなく、その老婆だった。

 

ぼくはちょうど、おばあちゃんが麺の湯切りをする目の前に陣取ったため、おばあちゃんのワイルドな湯切りで、いつ麺やしぶきが飛んでくるかとヒヤヒヤしていたが、一見ワイルドに見えるその湯切りは、実はすごく洗練されているらしく、こちらには振り下ろす腕から巻き起こる疾風さえも飛んではこなかった。

 

ぼくが頼んだのはたぬきうどんだったが、たぬきの天カスには、おそらくはかき揚げからこぼれ落ちたであろう具が山のように入っていて、天カスというよりはほぼかき揚げだったため、たぬきうどんではなく、かき揚げうどんだと言っても差し支えのないものだった。

 

中野ヌードル

 

 

 

 

月白貉