ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

follow us in feedly

豆苗は何日目に蘇るのか? - 第二日目『兆候』 -

昨日、豆苗は毒成分を秘めているので生食は控えるべきだという記述を、インターネット上で発見したのだが、昨夜もぼくは豆苗の生食を試みてみた。

 

なぜならとあるウェブサイトでは、豆苗は生食でもまったく問題がないと語られていたからである。

 

ちなみに昨夜は、蒸鶏と豆苗のサラダであるが、レシピ情報はこの文章中にはない。

 

そのウェブサイトとは、「豆苗研究会」というもので、豆苗栽培している村上農園という会社が運営しているようである。

 

 

インターネット上の情報というものは、往々にして、というかそのほとんどが、致命的な誤りを含んでいる場合がある。だから必ずしも、検索結果として導かれたサイトに記載されている情報が完全に正しいとは限らない。最終的には、如何に正解に近くとも、あるいは世界の果てのように遠くとも、あくまでそれは参考値としての情報であり、その判断はそれぞれの個人に委ねられるわけである。

 

豆苗の毒成分および生食の是非に関しても、まったく正反対の情報がインターネット上では語られているわけであるが、ぼく個人としては、こちらの豆苗研究会が言うように、おそらく生食しても何ら問題はないように思われる。

 

豆苗の生食の是非については、実際のところはよくわからないが、この二日間、豆苗を生食しているぼくの体には何の変調も見られない。今はただ、その事実があるのみである。

 

結局、生きてゆくということは、そういうことではないのか。

 

第二日目、豆苗はまだ蘇らないが、兆しが見え始めた。かつて東方の三賢人がキリスト誕生を知ったベツレヘムの星のような兆しが、我が家の豆苗にも現れたのだ。

 

無残に切断された緑の海原の中より、細く弱々しい茎が、やや朧気にではあるが天を目指して伸び上がりつつある。これは正に蘇りの兆しにほかならない。

 

あるいは今夜にでも、我が家の玄関の戸を打ち鳴らす見知らぬ三人組が現れて、ぼくにこう告げるかもしれない。

 

豆苗はいずれ蘇る」と。

 

心の準備を始めなければならない、いつ豆苗が蘇ってもおかしくはないのだ。

 

豆苗は何日目に蘇るのか? - 第二日目『兆候』 -

 

2016年5月11日 月白貉 記

 

お題「マイブーム」

 

 

 

 

 

月白貉