ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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未来の人間があの施設を発見した時、宗教的な意味にとるかもしれません -『100,000年後の安全』(Into Eternity)

ぼくが現在暮らしている町には、原子力発電所がある。

 

日本で唯一、県庁所在地にある原子力発電所で、実に徒歩圏内に原発が建っている。

 

東京都で言えば、東京湾岸、例えばお台場に原子力発電所が建っているイメージで、東京都庁からお台場までの距離的な面で考えれば、県庁から原発までの距離は、その半分にも満たない。

 

ぼく自身も、一度歩いて近くまで行ってみたことがあるが、本当にすぐそこに、原発があるのだと実感した。

 

それを知った時には、少なからず恐怖を感じた。

 

町の中には、「ここから原発まで◯キロ!」とか「市内に原発あり」などと書かれた看板やステッカーを見かけることがある。まあ原発があるかないかは、もはや距離の問題ではないのだが、もし3.11の時のような災害が起こって、その原発が爆発でもするようなことがあれば、おそらくは放射能から逃れることなど出来ないだろうし、そして圧倒的に我が身に降り注ぐのだろうと、時々ふとそう思うことがある。

 

そしてもちろんそれは、この町の原発が爆発する可能性という未来のことではなく、残念ながらもうすでに始まってしまっていることでもある。日本国内ではすでに原子力発電所が爆発してしまっていて、実際にはぼくも含め多くの人々が、放射能からは逃れられなかった、あるいは逃れられていないという言い方のほうが正しいのかもしれない。そしていまだに、日本国内に限らず世界中に大きな影響を与え続けている。

 

かつての大震災に伴う福島での事故、もちろんいまだに何も終わってなどいないが、ぼくはそのことについて本当にわずかなことしか知らないでいる。一時は、原発に反対するデモに参加したり、いろいろな情報を収集していたこともある。そして自身の判断として、それまで暮らしていた東京を離れ、生活の拠点を西日本に構えたはいいのだが、気が付けば目と鼻の先にも原発が建っていた。

 

小さな島国である日本に、なぜこんなにたくさんの原子力発電所が建っているのか。

 

日本のメディアが色々なことを報じたり報じなかったり、わずかな真実があったり、あるいは全て嘘だったりする。実際に福島第一原子力発電所に足を運んだこともないし、今のところ直接的に、あるいは目に見えた被害をぼく自身が被っているわけではない。いや前述したように、もしかしたら知らない間に多くの影響を受けている可能性もあるし、そちらの可能性のほうが大いに有り得るだろう。

 

福島での事故の直後、日本である映画が公開された。フィンランドにある放射性廃棄物の処理施設を描いたドキュメンタリー映画で、北欧で公開されたのは福島の事故が起こる一年ほど前である。

 

タイトルは、『100,000年後の安全』、原題は『Into Eternity』、ちなみに日本で公開される多くの外国映画に言えることだが、この邦題には納得が行かない。

 

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オンカロ」(穴、洞窟、あるいは隠された場所という意味)と名付けられた放射性廃棄物処理施設は、この映画製作時から考えておよそ100年後に施設内の放射性廃棄物の格納庫が満杯になる予定で、その時点で施設にコンクリートを流し込んで完全に封印するというプロジェクトが進行中である。

 

地下500メートルという深さに達する施設はさながら地下都市か、もしくは地下神殿のごとくであり、さらには施設の耐久性は最低でも10万年を想定している。なぜなら放射能が無力化するには少なくとも10万年の歳月が必要だとされているからで、ある説によれば100万年は必要だともされているからである。

 

この映画では、もちろん原子力発電の是非が問われているのだが、焦点として描かれているのは、この施設を如何にして10万年後まで存続させるのかという関係者それぞれの思いである。

 

100年後でさえも予測困難な世界の中で、果たして10万年後という人類の歴史さえも遠く及ばないような時間を予測することなどは到底不可能に近い。そのため結局は、大いなる推測の域での決定を余儀なくされる事柄が山ほどあるわけで、そのプロジェクトに関わる人々にも様々な苦悩があるわけである。

 

内容に関してはあまり多くは語らないが、おもしろいと思った部分は(この話題において、果たしておもしろいという表現が正しいかどうかはさておくが)、この巨大で危険な地下施設を、未来の人間が発見して、あるいは掘り起こしてしまう可能性についての考察に多くの時間が割かれている部分である。

 

つまり、どのような変化をとげるのかわからない遥か未来の世界に対して、この施設の警告を残す必要があるのではないかという話である。例えば石碑を立てて警告するとか、文字が通じない場合も考えて壁画を残すとか、あるいは伝承か神話のような形をとって、未来永劫まで言い伝えるとか。

 

一方では、そういった警告が時を経て、かえって未来の人々の興味をそそり、最終的に施設を掘り起こしてしまうことになるのではないかという意見も存在する。そのために一切の情報を断って、隠してしまうほうがいいのではないかということである。

 

エジプトのピラミッドの建造理由には、現在の考古学者をはじめとして多くの人々が様々な説を言い合ってはいるが、結局のところ遥かな時間を経てしまった今、真実などはけっして理解できないのと同じなわけである。

 

そういえば確か、エジプトの王家の谷で墳墓を発掘していた人々があいついで死んだという話がある。俗にいう「王家の呪い」とか「ファラオの呪い」と言われているもので、後にでっち上げだとも言われた話だが、例えばエジプトに残る墳墓だと言われているものが、実は別な用途の特殊な施設で、内部に生物に対して非常に危険な物質が充満していたとしたら。

 

そういう話にも例えられる。

 

はるか未来の人々がオンカロの存在を知り、オンカロを放射性廃棄物処理施設ではなく宝の詰まった墳墓だと考えて掘り起こしたらどうなるだろうか。無色無臭の放射性物質が充満した地下空間に到達した人々は、あるいは“謎”の死を遂げるに違いない。

 

コンセプチュアル・アーティストであるマイケル・マドセンによって描かれたこのドキュメンタリー映画キューブリックの描くSF映画のような趣の映像美と、半ば哲学的な不思議な感覚を伴う作品だが、原子力に依存している人類を覆う影が、後からゆっくりとゆっくりと、しかし確実に追ってくるような、何か禍々しい余韻がいつまでも残るような感覚を覚えた。

 

オンカロで処理できる放射性廃棄物は、世界に存在する放射性廃棄物のごくごく一部の量でしかない。

 

日本国では果たして、真剣に10万年後の世界の安全までをも我々の責任として考えた上で、原子力発電所を動かしているのだろうか?

  

お題「何回も見た映画」

 

 

 

 

月白貉