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ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲が自らの感覚で日本を歩きまわって見聞を広めたように、故郷を離れて旅を続けるぼくが、ぼくの感覚でその土地を歩き回って、見たり聞いたり嗅いだり触ったりした、ぼくの見聞録です。

ポール・サルダは本当に石見銀山にやって来ていたのか? - 石見銀山@ディープ -

石見銀山(いわみぎんざん)をご存知だろうか?

 

石見銀山とは、島根県大田市にかつて存在した日本最大の銀山であり、現在では閉山されているが、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての最盛期には、世界の銀の約3分の1ともいわれる日本産の銀の大部分を産出していたとされる銀山である。

 

ちなみに当時の呼び名は大森銀山(おおもりぎんざん)、また江戸時代初期には佐摩銀山(さまぎんざん)とも呼ばれていた。

 

最盛期を過ぎ、明治期以降には銀が枯渇してしまった石見銀山では代わって主には銅が採鉱されたが、その後閉山、そして2007年に「石見銀山遺跡とその文化的景観」として世界遺産に認定されている。

 

数年前の話であるが、ぼくはとある仕事の為に、この世界遺産登録されている石見銀山遺跡のエリア内で二年間ほど暮らしていたことがある。そして同じく仕事の一環として「石見銀山@ディープ」なる独自の見聞録をウェブログに記していた。

 

 

石見銀山を離れてしまい、なかなかリアルにその質感を感じ取れなくなってしまった今、見聞録の続きを記すことが長い間滞ってしまっているのだが、何とか少しずつでも再開してゆこうと思い、本筋とはまた別のアングルから、小さなパーツとしての「石見銀山@ディープ」を再開し始めてみることにした。続編とまではいかないかもしれないが、映画などで言うところのスピンオフ作品とでも言ったらいいかもしれない。

 

というわけで、今回は「ポール・サルダは本当に石見銀山にやって来ていたのか?」ということで、ほそぼそと再開を試みる。

 

最盛期後の石見銀山は1867年(明治元年)、太政官布告による民間払い下げにより田中義太郎が経営権を取得したのだが、1872年(明治五年)の浜田地震の被害を受けてしばらく休山となっている。その後、1873年(明治六年)頃、松江市新材木町の鉱山師である安達惣右衛門が一鉱区の経営に乗り出したのだが結局うまくいかず、これらをすべて合併して大阪の藤田組が約七十二万坪余りを引き受けて開発に着手している。

 

安達惣右衛門から藤田組に繋がる間の空白については詳しいことはわかっていないが、ある記録によれば、大森町の城上神社宮司であった上野武三方に寄留していた松江藩の士族が経営していたという話があるという。

 

この士族というのは島根郡内中原町四番屋敷の森牧右衛門で、東京の浅草橋場町に寄留していた岡山藩の士族、岸本好文との共同経営だったという。

 

石村禎久の『石見銀山 戦国の争乱・鉱山社会・天領』によれば、『雲藩職制』の付録についている「御給帳」に森牧右衛門の名があり、以下のように記されているという。

 

三保関取締役、開産方用懸、職米二十俵

 

そして同じく『石見銀山 戦国の争乱・鉱山社会・天領』によれば、この森牧右衛門が当時の石見銀山において鉱山の近代化を図るために雇い入れたのが、ポール・サルダというフランス人技術者であり、また寄留先は邇摩郡銀山町百四十三番地、河野綱太郎方だったとしている。

 

新石見銀山物語 (1971年)

新石見銀山物語 (1971年)

 
三瓶山の史話 (1967年)

三瓶山の史話 (1967年)

 

 

また石村禎久は同書で、このポール・サルダについての聞き込みに対して地元の古老たちは何の情報も持っておらず、森牧右衛門が外務省への雇用願書は出したものの、雇入れは実現しなかったのではないかと言っているが、一方ではポール・サルダなる人物が一時務めていたという東京大学の資料には、サルダが石見銀山に足を運んでいるという記録があるとも言っている。

 

さて、このポール・サルダという人物のことを調べてみると、明治期に海軍省横須賀造船所附属学校、そして東京大学で教員をしていたポール・ピエール・サルダ(Paul Pierre Sarda)という人物が浮かび上がってくる。

 

サルダは明治六年(1873年)に海軍省の御雇い外国人として来日し、横須賀造船所の機械技師として三年ほど勤務した後、一時期東京大学で教鞭をとり、そして明治十一年(1878年)頃に横浜居留地へ移り住んでいる。またサルダは当時建築家として活躍しており、パブリック・ホール・ゲーテ座、フランス領事館、その他多くの商館や個人住宅の設計と建築に関わっているということである。 ちなみにサルダには日本人女性との間に息子が一人いたということと、現在でも横浜の外国人墓地にはサルダの墓があるという。

 

おそらくは、石見銀山に技術者としてやって来たとされているのは、このポール・ピエール・サルダのことではないのだろうか。

 

石村禎久はサルダが東京大学の契約終了後に「坑業教師」の資格で石見銀山にやって来ていると記しているが、果たしてほんとうにやって来たのだろうか?

 

同時期、生野銀山の近代化に尽力し、また日本各地の鉱山調査も行ったフランス人鉱山技師のジャン=フランソワ・コワニェ(Jean François Coignet)という人物がいる。

 

彼もまたフランスより招聘された御雇い外国人技師のひとりであり、彼に関しては歴史にもしっかりと名が刻まれているが、この石見銀山におけるポール・サルダについては、なにやらずいぶんとぼんやりした情報である。

 

またこの時期、明治新政府によって有望な鉱山だとして官営鉱山に指定された鉱山を視察して回った前述の鉱山技師コワニェの他にも、民営鉱山で指導にあたった数人の技術者がいたようだが、例えば別子銅山のルイ・ラロックや山ヶ野金山のポール・オジェなどであるが、コワニェと同じくどちらも鉱山のプロフェッショナルであるのに対して、歴史に名前の浮かび上がってくるポール・サルダは鉱山技師ではなく建築家というイメージが強い。

 

仮説としては、コワニェやラロックのことを知った誰かが、フランスからの御雇い外国人だという共通点だけに目をつけて、石見銀山の視察を依頼したものの、「ぼくの分野ではありませんよ・・・」と言われて断られたか、あるいはとりあえず現地に視察には来たけれども、どうにもならなかったという程度の話だったのではないだろうか。

 

結局、石見銀山においてのサルダに関する記録は一切残っておらず、もしやって来ていたとしても、その足跡や成果に関しては謎あるいは分厚いベールに包まれている。ポール・サルダという人物はしっかりと存在しはするが、石見銀山との繋がりは見出すことは出来ていないわけである。

 

そしてその後の石見銀山は、再開発の試みを引き継ぐ藤田組によって採掘の現場は大森から柑子谷(仁摩町大国)の「永久鉱山」に移行したが、主として採掘されていた銅の価格の暴落や坑内環境の悪化といった理由により、1923年(大正12年)に休山するに至ったのである。

 

その後、戦時中の軍需物資として銅の国産化を目論み、1941年(昭和16年)に銅の再産出が試みられたのだが、1943年(昭和18年)の大きな水害で坑道が水没する打撃を受け、ついに完全閉山となってしまう。

 

さて、石見銀山に来たとされる謎のポール・サルダとは誰なのか、本当に石見銀山にも外国人の技術者が訪れたのだろうか。

 

もしかすると、横浜の外国人墓地に眠るポール・サルダではないポール・サルダがいたのかもしれないし、名前の酷似したポール某だかサルダ某だかがいたのかもしれない。あるいは当時の流行だった「鉱山を視察する御雇い外国人」に影響を受けて、石見銀山にもどうやらやって来るらしいぞという根も葉もない噂から、まったく関係のないポール・サルダに紐付いてしまったのかもしれない。

 

今のところ全ては謎であるが、石見銀山にやって来た謎のフランス人技術者ポール・サルダの調査は引き続き「継続」とさせていただいて、今回はお開きとさせていただこう。

 

とまあこんな感じで、「石見銀山@ディープ」、徐々にゆるりと再始動中。

 

当時のあんな山奥にフランス人が来たら、何かしら記録に残ると思うけれどなあ。

 

By メルビル (Own work) [CC BY-SA 4.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)], via Wikimedia Commons

 

 

 

 

 

 月白貉