ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲が自らの感覚で日本を歩きまわって見聞を広めたように、故郷を離れて旅を続けるぼくが、ぼくの感覚でその土地を歩き回って、見たり聞いたり嗅いだり触ったりした、ぼくの見聞録です。

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明
明

桜の樹の下には屍体が埋まっている。

桜の花の咲く頃になると、桜の樹に花が満ちる頃になると、そして桜の花弁が雨風に打たれて宙に舞い、あるいは地面にばら撒かれる頃になると、決まって短い文章のことを思い出す。

 

梶井基次郎の「桜の樹の下には」。

 

桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

 

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あの文章とは少しだけ似通っていて、あるいはまったく趣の違う話でもあるが、ぼくは桜がそれほど好きにはなれない。

 

遠目で眺める花満開の桜の樹は確かに美しい。昼でも夜でも、晴れの日でも雨の日でも、遠目で眺めているぶんには、花満開の桜の樹は確かに美しい。

 

けれど、いざ近付いて桜の花のひとつひとつの様子をじっと見てみると、そこには何やら奇妙な禍々しさを感じてしまう。血管のような筋の浮かぶ花弁に包まれた空間。黄色い衣を纏って中央に立ち竦む巨大な雌蕊。それを取り囲んで踊り狂う金色の仮面の雄蕊達。それは遥か古の呪術的な儀式のように見えやしないかと、そう思って長らく見るには耐えない。

 

ただ、そこを耐えて耐えて見続けて、なんとか山を通り越すと、いくらでも見ていられるような妖しげな魅力がにじみ出てくる。その刹那には桜を好きになるけれども、次の年には好きになった気持ちをすっかり忘れてしまっている。けれど再び遠目に見える桜の樹の色香に惑わされて近付いてゆき、迂闊にもグロテスクな儀式を垣間見てしまうことになって陰鬱な気分になるが、その先には例の妖しげな魅力が待っていて、刹那的にはまた桜が好きになる。

 

それを繰り返しているうちに、自分は桜が嫌いだと思いながらも、死ぬ間際になってみると桜のことを思い出して、どこぞの見知らぬ桜の樹の下まで歩いて行って、突っ伏して死ぬのだろうと思う。

 

後はその桜の樹の下に埋められて、桜の樹に養分も魂もすべて吸い尽くされて、花の咲く頃になると雄蕊のひとりになって、花弁に囲まれて、金の仮面を被って踊り狂うに違いない。そうやって誰かを桜の樹に吸い寄せてから虜にして、また忘れさせて、終いには桜の樹の下で死なせるのかもしれない。

 

今日、人に連れられて桜の花を見に出かけた。

 

去年のことはすっかりと忘れてしまっていて、桜はあまり好きではないと思っていたけれど、最後には思い出したように一瞬桜のことが好きになった。

 

でも、それもまたすぐに忘れてしまうのだろう。

 

桜の樹の下には屍体が埋まっている。

 

お題「お花見」

トピック「花見」

 

 

 

 

 

  

 

 月白貉