ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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謎の妖怪「サメ」を追え! 島根県隠岐郡都万村に伝わる動物怪異考 -「サメ」- 第二回

前回から引き続き、島根県隠岐郡の都万村に伝わる「サメ」と呼ばれる謎の妖怪について考察してゆきたいと思う。

※以降、妖怪としてのサメは魚類のサメと区別して赤字で「サメ」と表記する。

 

ちなみに前回をお読みでない方は、以下にその道程を標すので、お暇なら立ち寄っていただけると幸いである。

 

 

さて、「サメ」と聞いてまず日本人が思い浮かべるのが、もちろん軟骨魚綱板鰓亜綱に属する魚類としてのサメだと思う。

 

まずはこの和名のサメというものが、都万村の怪異に何ら関係があるのではないかという視点から考えてゆきたい。

 

和名であるサメの語源は諸説あるのだが、新井白石の『東雅』によれば、古来より「サ」という音は「狭」や「小」という意味を表すものとされてきた。

 

よってサメがその大きな体に対して非常に小さな眼を持つ魚だったことから、「狭眼(サメ)」、「小眼」(サメ)と呼ばれるようになったという。またある種類のサメは深いところに住むということで「フカ」と呼ばれるという。

 

語源辞典東雅 (1983年)

語源辞典東雅 (1983年)

 
物類称呼 (岩波文庫 黄 269-1)

物類称呼 (岩波文庫 黄 269-1)

 

 

『物類称呼』によると、日本では地域によってサメに対する様々な呼び方がある。

 

播磨では「ノソ」、越前では「つの字」と呼ばれる。このつの字とは、サメを捕えて磯に上げると「つ」の字になるからだという。大和では「フカ」、四国や九州ではサメという呼び名はなく、すべてフカだという。土佐には「ナデブカ」というものがいて、船端に人が立つと必ず尾でなで落とすからその名が付いたという。このナデブカは妖怪で言うところの「磯撫で」を想起させる。

 

またアイヌではサメあるいはシャメという呼び方で、古くから海の守り神として崇められている。

 

さてでは、この問題の怪異が報告されている山陰地方、特に石見や出雲ではどんな呼び名があったのかといえば、古くからサメのことが「ワニ」と呼ばれてきた。

 

この件に関しては以前当ウェブログで、また別の妖怪の話として触れているので、やや趣旨の違う話ではあるのだが興味がある方は立ち寄っていただきたいので、以下にその道程を標す。

 

 

古代日本においてワニと記された動物が現在ではサメという認識になっている理由として、山陰地方をはじめとした日本海側の一部の地域で、今でも普通にサメのことをワニと呼んでいるからであるというところが大きいという。

 

つまり中国から「鰐魚」なるものの存在が知識として入ってくるまでは、ワニとはサメ以外の動物を指す言葉ではなかったのである。

 

また中国地方の山村部で現在でも使われているワニという呼び名であるが、これは生きて海を泳ぐサメの場合もあるが、山間部では特に食材としてのサメに対する呼び方であるという。山間部で海の魚が生で入手しにくい中、唯一、生で保存できるサメの肉が、祭事などには欠かせない重要な「食」の対象であり、そのサメの肉のことをワニと呼ぶのだという。

 

By Chen4 (私が撮影しました) [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html) or CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], via Wikimedia Commons

 

「ほかにごっつぉはありませんが、“わに”ほだぁよおけありますけぇ、腹が冷えるほど食うちゃんさい」というのが祭りのあいさつの常套句だったとか。刺身のことを「ぶえん(無塩)」と呼ぶほど、生の海魚には縁が薄かった時代。今でも時々「ぶえん」って聞きますよ。

 

ちなみにこれは、島根県大田市に在住する太田氏からお聞きした話である、太田さん、ありがとうござます。

 

サメ」という怪異が伝わる隠岐でも、魚類のサメのことはワニと呼んでいる。

 

前述した当ウェブログの「中国地方の言語体系から見る妖怪名称と重言」にも書いている内容であるが、古事記神代巻、「因幡の白兎」に登場する「和邇」とはフカ(サメ)を指すとすることに賛成し、国定教科書編纂時にこの和邇を「ワニザメ」と表記した歴史学者の喜田貞吉も、隠岐でサメの刺し身、つまりワニを食べてからこの決定を下したという話を、折口信夫がとある講演の中で語っている。

 

日本の神話〈第4巻〉いなばのしろうさぎ

日本の神話〈第4巻〉いなばのしろうさぎ

 

 

ではまず、魚類としてのサメという和名から、都万村に伝わる動物怪異としてのサメへのアプローチを試みてみよう。

 

古代日本における魚類のサメに対する呼び名は様々で、その中でもあまりサメという言葉は使われておらず、前述の通り特に九州や四国においてはサメという呼び名はほとんど使われていないという。山陰地方をはじめとする日本海側の一部、サメという怪異が伝承されている隠岐郡でもサメではなくワニという呼び名を用いている。ただアイヌでは古くからサメあるいはシャメという言葉を用いて呼ばれている。

 

和名のサメの語源が、目の大きさに由来する狭眼あるいは小眼だとする説は先に述べたが、他にも諸説あり、このアイヌ語のサメあるいはシャメという言葉が語源となっているという説もある。

 

しかし出雲におけるワニと呼ばれるものが、いわゆる魚類のサメと呼ばれるものと同じだという知識は、ずいぶん後になるまで知られていなかったと言われているので、もしアイヌ語のサメが語源だとしても、サメという名前が指し示すものが山陰地方で言うところのワニを指し示す言葉だとうことがその土地の人々に知られるようになったのも、同じようにずいぶんと後になってからではなかったのだろうか。

 

とすると、もし山陰地方でまだ魚類としてのサメという名前の認識がなかった時代に、この地方で、特に都万村においてのサメの名の由来となっているものは、そう呼ばれたものとは、いったい何だったのだろうか。もしかするとワニと呼ばれる存在がサメと同種の生物だということが認識される以前、かつての西日本や特に山陰地方にはサメと呼ばれるまた別な存在があったのではないのだろうか。あるいはまた別なルートをたどって、別の形を持つサメと呼ばれるものが伝わってきていたのではないだろうか。

 

さらにはぼくの調べた限りだと、日本国内におけるサメという名前に関わる事象は、実際の生物のものにしても、アイヌでの神話にしても、またここではまだ触れていないが、怪異や妖怪の類にしても、すべて海での話になっているのに対して、都万村におけるサメは「山奥にいる獣」だとされている。とすると、あるいはこのサメは日本以外の場所から伝播してきたものだったのではないだろうか。

 

では、サメという呼び名が示す存在の伝播の流れがひとつではなかったと仮定して、都万村に伝わる怪異としてのサメが日本以外からの流れを汲むものだったとすると、それはどこからやって来たもので、そしてどんなものなのだろうか。

 

かつて山陰の石見地方には、世界的に名を知られた日本最大の銀山が存在していた。ご存じの方も多いと思うが、戦国時代から江戸時代にかけて最盛期を迎えたとされる「石見銀山」である。

 

現在では閉山しているこの石見銀山および石見銀山周辺のエリアは、2007年に世界遺産に登録されており、今では島根県の観光の要ともなっている。じつはぼく自身は数年前にこの世界遺産登録エリア内で二年間ほど生活しており、その際に石見銀山エリア内、またその周辺のディープなスポットを自分の足だけで歩きまわり、その記録を綴るウェブログを書いていたことがある。

 

石見銀山@ディープ - DEEP@Iwami silver mine -」というのがそのウェブログで、現在は遠くその場所から離れてしまったため更新は滞っているけれども、興味がある方は是非にも立ち寄っていただきたい。

 

 

この石見銀山のあった場所はまだまだ謎に満ちたエリアであり、実際に住んでみて思ったことだが、単に「世界遺産だ!」という言葉だけではまったく括りきれない大きな魅力を秘めている。しかし、旅をするにあたってそういった認識をきちんと持たない多くの日本人は、ちょっと立ち寄って石碑の前で記念写真でも撮れば十分だと思っているらしく、これは石見銀山に限ったことではないのだが、大勢でバスに乗ってやってきて、蟻の行列のようにゾロゾロと行進したかと思うと、訪れてから一時間と滞在せずに、けれどお土産だけは山のように抱えて、またバスに乗って帰っていくというケースがほとんどだと思う。挙句の果てには「つまらない場所だね・・・」ということになってしまっている。その旅がつまらないのは場所のせいではなく自分のせいである。

 

旅の楽しみとは、その土地を理解することに始まり、理解することに終わるのであって、お昼ごはんを食べたりおみやげを買ったりすることが趣旨ではないはずだとぼく自身は感じる。

 

さて、話が大幅にそれる前に先に進もう。

 

この石見銀山からの銀の積出港として、この地域の幾つかの港は、温泉津などはその代表的なものであるが、古くから対外貿易の拠点なっていたため、交易のある諸外国からの情報も多く入ってきた土地だったのではないだろうか。

 

となれば、もちろん他の土地とは別のルートをたどって、何かしらの知識や情報が伝播する可能性も十分にあるのではないのかと考えるのである。そこで、たとえば中国や東南アジア、そしてヨーロッパなどから伝えられた知識の中に、都万村に言い伝わる怪異としてのサメの出処がないだろうかという部分に目を向けてみたい。

 

まずいちばん可能性の高そうな国で言えばやはり中国や朝鮮ということになるが、まず中国におけるサメというものについて調べてみると、第一回の最後で言及した『本草綱目』によるサメの記述を見ることが出来る。

 

同書によればサメの中国名として「鮫(こう)魚」、「沙(さ)魚」、「鰒(はく)魚」、「溜(りゅう)魚」、もうひとつ【魚編に昔】という漢字が名に付く魚「しゃく魚」なるものが出てくる。そしてもうひとつ、鹿沙あるは白沙というものは背に丸い文様があり鹿の模様に似ていて、実際に鹿に変化するとある。

 

鹿に変化するサメがいる。

 

ここで『全国妖怪事典』に『沿海手帖』からの出典として記述されていたサメとの符号点が朧気ながら浮かび上がってくる。都万村の伝承によれば、山奥に出るとされるサメと呼ばれる動物は“獣”だと記されていた。つまりこれまで見てきた魚類としてのサメでもなければ、山陰地方で呼ばれるワニの名前に因むもの、つまり爬虫類でもないのである。ところが、中国の鹿沙あるいは白沙というサメは鹿に変化するという、つまりは全身が毛でおおわれ、四足で歩く動物、いわゆる獣に変化するわけである。

 

さて、なかなか盛り上がってきたとろこではあるが(まあ盛り上がっているのはぼくだけの可能性も否定はできないが・・・)、今回はここでお開き。

 

未知の妖怪に関するごくごく勝手な考察は、もちろんまだまだ続く。次回は中国におけるこの鹿沙あるいは白沙を糸口として、さらにサメの正体に迫ってゆきたいと思う。

 

では、次回へ続く、お楽しみに。

 

 

 

 

 

  

 

 月白貉