ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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綺麗な梅は数多にあれど、見るなら路傍の密かな花が、兎にも角にも宜しかろう

数日前の買い物の帰り道、いつも通る道端の薄汚れた古い団地の片隅で、うっすらと色付いた梅の花がひっそり咲き始めていた。

 

桜もそうだが梅もそうで、ぼくはわざわざその為だけに時間をとって、例えば世間で名所だと言われているような場所まで花を愛でに出かけたりするようなことは、あまり好まない。どうせそんな場所に行っても、ワラワラと波打つ人々を見物にゆくようなもので、主役の梅が陰ってしまう。

 

だから決まってぼくの花見は、偶然やら唐突やらあるいは気まぐれという言葉が似合っている。

 

今日は暖かいから外にでも出かけようかと思って、梅のことなどすっかり忘れていて家を出ると、時期によってはあちらにもこちらにも梅の花が咲き乱れている。ああ、こんなところにも梅の木があったのか、あそこの木も梅だったのかというような具合で、普段の散歩が花見遊山とでも言うようなことに、化けだすのだ。

 

ちょっと気に入った梅の木の下で立ち止まってなんかいたりすれば、知らぬ間にずいぶんと時が経つわけで、もうちょっと見ていたいから、道端に腰を下ろしたりすると、近所のおばあさんなんかが出てきて、「そこは特等席だねえ」なんて風に話しかけてきたりする。

 

もし誰かが横にいるなら、手をつないで日向に腰掛けて、日がな一日、甘い話や辛い話なんかをして、梅の木のそばで時間を過ごしたりする。そういうふうな花見が、ぼくの好みである。

 

一本の梅の木に対してひとりか、あるいはふたりくらいが、静かにゆっくり花を愛でるには、よい塩梅であろう。

 

だからわざわざ、「いざ今日こそは!」などと意気込んで梅など見に行かなくとも、何の気なしにでかけた散歩の途中で、ふと出会して見る、ひっそりとした路傍の、なんてことのない梅や桜のほうが、なんだかんだ言ってずいぶんと美しく目に映る。

 

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トピック「梅園」

 

 

 

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