ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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微睡み

夢を見た。

 

顳顬のあたりと首の後にピチッという何かが引き千切れるような音が響き、半透明にいくつも折り重なった多色の意識に亀裂やら分断の兆しが過ぎり、突然に目を覚ます。

 

まだ朝には程遠いだろうとの予想通り、枕元に忍ばせたスマートフォンを起動させると午前五時三十七分、真冬の凍える朝はいつまでも布団の中でコンコンとうねりながら微睡んでいたい。けれどこの機を逃せば、また深き永遠の眠りに落ちていってしまうだろう。

 

横で寝息を立てている同棲中の彼女が、ふいに喉に痰を詰まらせたようなゲゼゲゼという嫌な咳をし出したので、頬に触れながら「大丈夫か」とひっそり声をかけるが、まったく反応がない。息をしているからまあ死ぬことはないだろうと思い、布団から這い出て裸に薄い上着を一枚だけ羽織り、洗面所に歯を磨きに向かう。

 

洗面所には自分のものと彼女のものとふたつの歯ブラシがあり、小さなドーナツ状の焼き物の歯ブラシ置きに差し込んであるのが常なのだが、

 

自分のものを手に取って歯磨き粉を擦り付けていると、何故か彼女の使っている紫色の柄の歯ブラシがその場所には差し込んでいない。はて、昨日寝る前には一緒に歯を磨いていたはずだけれど、その後にどこか他の場所にでも持って行って、そのまま置き忘れたのだろうかと怪訝に思っていると、洗面台の下においてあるゴミ入れの中に、その紫色の柄の歯ブラシがある。汚れたティッシュやら洗濯物の糸くずやらにまみれて無造作に押しこんである。昨日の夜見た限りでは、まだブラシの部分は綺麗なものだったし、新しい歯ブラシに替えるような時期でもないはずだか、なぜゴミ入れの中に打ち捨ててあるのだろうと思い、口に自分の歯ブラシを咥えたままゴミ箱の中に右手を突っ込んで、彼女の歯ブラシをゴミくずの中から引き抜いてみると、ブラシの部分に何かおかしな液体が大量に付着している。

 

冷えて固まった動物の油のようにドロドロとしていて、色はまだらに赤黒い。

 

気味が悪くなって、再びその歯ブラシをゴミ入れに放り込み、自分の歯磨きをささと終えてから、適当にビシャビシャと水で顔を洗い、布団のところに戻ってみると彼女が布団の中から姿を消している。

 

寝ている部屋の他に場所などないような狭い家だから、起きて歩きまわっていれば姿も当然目に入る。はてどこへと思って首を傾げ、さてはおかしな体勢で布団に潜り込んだのかとも思って、ぐしゃぐしゃと盛り上がった掛け布団の下を探ってみるが、そこには彼女の姿がないどころか、今さっきまでそこにいたような体温のぬくもりさえも消え失せていて、布団がキリキリと冷えきっている。

 

おやおかしい、どこに姿をくらましたのかと、少し恐ろしくなっていると、頭の上に何かビタビタと水が垂れてくるような感覚があり、右手でそこをまさぐってみると、ベタベタとした糊だかのような感触がある。何だと思って反り返って頭上を見上げると、

 

先程まで布団で寝息を立てていた彼女が悪鬼のような鼠色の形相で、ちょうど見上げた顔の先の天井にへばりついていて、シューゼーシューゼーという奇妙な音を立てながら口から白く色付いた息を吐き出している。

 

はっと肝をつぶして金縛りにあい、言葉を失ってその様子を下から不動に見上げていたが、彼女の口の際からドロドロとしたドス黒い液体が垂れ下がり、見上げる顔にドドッと流れ落ちてきたことで我に返り、「わわあああ!」と声を上げて仰向けに床にひっくり返った。途端に、天井にへばりついていた彼女が獲物を目掛けて巣から急降下してくる大蜘蛛さながらにこちらにドサッと落下して来た。

 

彼女には手足合わせて四つしかなかったはずだか、いま眼の前にいる彼女には手が六つの足が四つあり、その六つの手の方をワラワラとカタカタとまやかしのように動かしながら体に覆いかぶさってきたかと思うと、短く硬い毛の生えたようなざらついた感触のするたくさんの掌で、両の腕と足を物凄い力で押さえつけられてしまった。突然身を襲った怪異にわけもわからず怖くて体がブルブルブルブル激しく震え出してまともな呼吸もままならなかったが、潰された肝をどうにか膨らまし、渾身を振り絞って「おい!」と声を上げた。すると彼女はその声を聞くなり、今まで見たこともない溶けたような笑顔を浮かべて全身をベタリと妖艶に密着させてきて、首の根本を妙に長い舌でヒタヒタと音をたてんばかりに舐めてから、左の耳に口付けするようにして唇をピタリとはりつけた。そして何か内緒話でもする時みたいなひっそりと掠れた声で、「なあに?」、と一言そう囁いた。

 

舐められた首筋にチクリという針で刺すような小さな鈍い痛みを感じたかと思うと、次の瞬間、首から背中、そして腰のあたりにかけて髄の中に焼いた鉄棒でも突き刺されたかの如き凄まじい痛みが走り、悲鳴を上げる間もなくそのまま気を失ってしまった。

 

その後は、気が付けば元の布団の中で目を開けて天井を見上げていた。

 

枕元に手をやると、忍ばせたスマートフォンはバッテリーが切れているようで、ボタンに触れてもうんともすんとも言わなかった。嫌な夢を見たものだと思って一度布団の中で伸びをして、そろそろ布団から這い出ようと思って寝返りを打ち、隣に寝ている彼女の方に目を向けると、その口元から下顎にかけてが、今さっきこぼしたばかりの赤いインクのようなヌルヌルと生々しいものでべっとりと濡れていて、枕にまでポタポタと垂れ落ちていた。

 

首筋に微かな痛みがあるのを感じた。

 

 

 

日本怪異妖怪大事典

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怪異を媒介するもの (アジア遊学 187)

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