ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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「飢え」は人が最初に学ぶ最も重要な教訓だ -『ストレイン 沈黙のエクリプス』(The Strain)【前編】

みなさんは「吸血鬼」というものについて、どれだけのことを知っているであろうか。

 

ぼくはと言えば、吸血鬼愛好家ではあるものの、大学で専攻していたのは残念ながら「吸血鬼学」ではなかったため、正直言って吸血鬼について知っていることは、おそらくはずいぶん少ないと思う。

 

日本における吸血鬼像と言えば、これは何度もこのウェブログで書いていることになるのだが、欧米文化の影響によるもの、つまり欧米から入ってきた吸血鬼文学や吸血鬼映画に依るところが実に大きい。では欧米文化の持つ吸血鬼像のベースとなっているものは何かと言えば、その代表にあがってくるのが、イギリスの作家ブラム・ストーカーによって物語られた「吸血鬼ドラキュラ」(Dracula)である。あるいはジョン・W・ポリドリによって創作された「吸血鬼」(The Vampyre)であり、シェリダン・レ・ファニュによって生み出された「吸血鬼カーミラ」(Carmilla)であるかもしれないが、日本人の多くにとっては、やはり「吸血鬼ドラキュラ」というイメージが頭に焼き付けられているに違いないと思う。そのため欧米文化にどっぷり浸かり気味の日本での吸血鬼像もおのずと、「吸血鬼=ドラキュラ」という図式に偏りがちになってしまっている。

 

ドラキュラ

ドラキュラ

 
吸血鬼ドラキュラ (角川文庫)

吸血鬼ドラキュラ (角川文庫)

 

 

ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」に関しては、以下の記事で簡単にではあるが触れているので、暇と時間を持て余している紳士淑女の皆様は、お読みいただけると幸いである。

 

 

では、ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」や、ジョン・W・ポリドリあるいはシェリダン・レ・ファニュ以前、吸血鬼と呼ばれるものは一体どんなものであったのか、どこを源流として今日まで流れてきているのかと言えば、

 

その一つは、ご存じの方も多いとは思うのだが、東欧、つまり東ヨーロッパに求められることが多い。

 

東欧の人々によって太古から語り継がれてきた民俗信仰あるいは昔話における怪異の中には、昨今の吸血鬼像、あるいはヴァンパイア像の源とされる邪悪なものが存在していて、昔から人々に恐れられてきた。そしてその邪悪な存在には、それぞれの地域によって様々な呼び名が付けられている。

 

例えばルーマニアのストリゴイ(Strigoi)やセルビアのヴコドラク(Vukodlak)などがそれである。

 

ただ、このルーマニアセルビアでの吸血鬼的存在に付けられた呼び名は、厳密に言うと単に吸血鬼だけを意味するものではなく、例えばストリゴイには「生きたストリゴイ」と「死んだストリゴイ」なる分類が存在していて、前者は「魔女」のことでもある。またヴコドラクとは語源的には「狼の皮」、つまり「人狼」を意味する言葉であり、更に古くは「太陽や月を食べる」、つまり「日蝕や月蝕を引き起こす」ものだと考えられていたらしい。

 

その詳細に関しては、ぼくも何度か読んで大いに参考にさせていただいている、平賀英一郎なる人物の著作『吸血鬼伝承「生ける死体」の民俗学』に詳しく述べられている。とんでもなくおもしろく、かつ素晴らしい本なので、興味のある方は是非にもご一読いただきたい。ちなみに平賀氏は島根県の出身だそうだ、なんと奇遇なことか!

 

吸血鬼伝承―「生ける死体」の民俗学 (中公新書)

吸血鬼伝承―「生ける死体」の民俗学 (中公新書)

 

 

さて、そういう観点から見る吸血鬼ということになると、実は世界中の民俗信仰の中にも、同様の影を持つものは多く存在している。東ヨーロッパに限らず、アフリカにも東南アジアにも中国にも、おそらくはヨーロッパの人々が足を踏み入れる前のアメリカ大陸にも、そしてもちろん日本にだって、そういった民俗信仰の中で語り継がれてきた邪悪なる吸血鬼的な存在が、かつては大いに跋扈していたはずである。ただそこまで話を広げてしまうと収集がつかなくなるので、それはまた別の機会に話を譲ろう。

 

さて、少し話を戻して、昨今において欧米でもっとも定着している吸血鬼像については、前述のブラム・ストーカーが創りだした「吸血鬼ドラキュラ」なども含め、東ヨーロッパの民俗信仰の中に存在した根源的な吸血鬼伝承の流れを少なからず汲んではいるのだが、「吸血鬼ドラキュラ」におけるドラキュラ伯爵をはじめ、欧米で語られる多くの吸血鬼像は、実在の人物をモデルにして創りあげられたフィクションであるパターンが非常に多いように感じる。

 

例えばドラキュラ伯爵のモデルであるワラキア公国のヴラド3世しかり、血の伯爵夫人として名を轟かせたハンガリー王国のバートリ・エルジェーベトしかり、残虐な行為や常習的な殺人で歴史に名を残した人物が、欧米における吸血鬼というもののモデルとされてきた。

 

そのため、多くの人々が思い浮かべる物語上の吸血鬼と、民俗学的な意味合いでの吸血鬼とは、また少し別な種類のものなのである。

 

そして結局は現在の欧米大衆文化、そしてその欧米大衆文化の影響下にある現在の日本文化の中でも、小説や映画や漫画の中で描かれている吸血鬼あるいはヴァンパイアのほとんどが、そういった初期の吸血鬼の物語、いわゆる吸血鬼文学以後に確立されてきた吸血鬼像をベースとして描かれていている。それは民俗学的な恐怖というよりも、どちらかとえばスタイリッシュな悪の存在だったり、あるいはダークなヒーロー的側面を持つ悪役といった要素が非常に強い。ぼくもこれまで多くの吸血鬼映画を鑑賞してきたが、どの映画における吸血鬼像も、近代になってからのキャラクター的な吸血鬼の枠を出てはいないように思う。もちろん、ぼくが知らないだけで、もっと根源的な吸血鬼に根ざして描かれている吸血鬼映画もあるかもしれないが。

 

では、東ヨーロッパの民俗社会の中で古くから語り継がれてきた根源的な吸血鬼とはそもそもどんなものなのかという話になるのだが、まあ今回は吸血鬼学概論というわけではないので、ぼくの有する少ない知識だけで簡単に述べておくと、

 

死後、墓に埋められるが、死んではおらず、あるいは死から蘇り、夜な夜な墓から這い出てきて、自らの親族や隣人を襲う存在のことである。

 

このように表現すると、いわゆる「ゾンビ」と呼ばれる存在にもずいぶん近いようなイメージがある。吸血鬼愛好家なだけでなくゾンビ愛好家のぼくとしては、ここで軽くゾンビの話にも触れたくなってしまうのだが、大いなる道草に成り果ててしまう恐れがあるため、ゾンビに関しての言及は差し控えることにする。

 

さて、吸血鬼な前置きが長くなりすぎたが、まあそんなこんなで、ぼくが個人的に渇望している根源的吸血鬼映画が何かないものかなあと思いながら、久しぶりにレンタル店に足を運んだ際に出会った、とあるアメリカのテレビドラマシリーズに話を移したいと思う。

 

ちなみに、そのテレビドラマの話にいたる序章として、私的アメリカテレビドラマ事情を記した章もあるので、まあ道草ばかりで大した内容でもないが、以下にその道程を標すことにする。お暇ならぜひ読んで頂きたいものである。

 

 

というわけで、今回お話するテレビドラマは、もちろん吸血鬼を題材とした「ストレイン 沈黙のエクリプス」(The Strain)である。

 

 

ストレイン 沈黙のエクリプス」は、2014年にアメリカのFXで放送が開始されたテレビドラマシリーズで、現在(2016年2月現在)、日本ではシーズン2までがソフト化されている。ぼく自身はつい先日、レンタル店で借りてきたシーズン1、計13話を一気に10時間ほどかけて鑑賞し終わったところである。

 

借りてきた当初は、まあおもしろいかどうかも未知数なため、最初の一二話ほど観て様子をみようと思い、夕食後にゆるりと鑑賞を開始したのであるが、結局はついつい惹き込まれて次も次もと観続けている間に、借りてきた全13話をあっという間に観終わってしまった。気が付けば窓の外が白み始めており、吸血鬼と共に久しぶりの徹夜を満喫したというわけである。

 

このドラマの企画と原作、そして製作総指揮、脚本、総合監督を一手に担っているのは、ぼくの敬愛するメキシコ出身の映画監督、御大ギレルモ・デル・トロである。

 

ギレルモ・デル・トロと言えば、日本のアニメや漫画のフリークであり、昆虫と刃物に対する偏愛を持つ超絶オタッキーな側面でもよく知られている。ぼくも今までに彼の監督作品を数多く鑑賞してきたが、どれもこれも彼のマニアックな核が遺憾なく詰め込まれた素晴らしい作品に仕上がっている。

 

ぼく個人的なお気に入りの作品を幾つか上げてみると、「ミミック」(Mimic)、「ブレイド2」(Blade II)、「ヘルボーイ」(Hellboy)、そして「パンズ・ラビリンス」(Pan's Labyrinth)あたりであろうか。

 

Pan's Labyrinth

Pan's Labyrinth

 

 

比較的近年で言えば、日本の怪獣映画へのオマージュを込めた「パシフィック・リム」(Pacific Rim)もなかなかの名作であった。

 

 

パシフィック・リム」の最後では、ギレルモ・デル・トロらしい以下の様なクレジットも表示される。

 

This film is dedicated to the memories of monster masters Ray Harryhausen and Ishiro Honda.

 

レイ・ハリーハウゼンはアメリカの特撮映画界に君臨するストップモーション・アニメーションの巨人であり、本多猪四郎は「ゴジラ」などの東宝特撮映画で知られる日本の映画監督である。

 

後者の本多猪四郎に関しては、正直言うとぼく自身は特に思い入れはないのだが、レイ・ハリーハウゼンに関して言えば、ぼくは幼い頃からの彼の映画の大ファンであり、「アルゴ探検隊の大冒険」(Jason and the Argonauts)や「タイタンの戦い」(Clash of the Titans)は映画ソフトも所蔵していて、今でも時々観返すことがある。

 

Jason and the Argonauts [Blu-ray]

Jason and the Argonauts [Blu-ray]

 
CLASH OF THE TITANS

CLASH OF THE TITANS

 

 

さて、そんなギレルモ・デル・トロが作り上げた吸血鬼の物語が、実にぼくの求めていた吸血鬼の物語に大きく当てはまっていて、なんとも心躍る仕上がりになっている。簡単にストーリーを説明すると、まあ基本的に映画やドラマのストーリーを先に話してしまうほど野暮ではないぼくとしては、ドラキュラ伯爵のマントの如きもので覆い隠しつつ説明するわけであるが、

 

おぞましい吸血鬼の愛が、マンハッタンを覆い尽くしつつある!という話である。

 

The Art of the Strain

The Art of the Strain

 

 

まあ何はともあれ、百聞は一見にしかず、という言葉もあるくらいなので、ここで内容についての多くを語るつもりは最初からないわけで、加えて前半に吸血鬼の話ばかりしていたらずいぶんと長い文章に成り果ててしまったので、ひとまず今回は前半(仮)ということにしておいて、あっさりお開きとさせていただく。後半を書くかどうかは未定であるが、出演者の話や、好きなシーンの話なども少しだけ触れてみたいなあと思ってはいるので、短めな後半も追って書き始めるかもしれない。しかし、いつだって予定は未定なのが世の常である。

 

もし、この「ストレイン 沈黙のエクリプス」に俄然興味が湧いたぜ!という方は、ぜひ鑑賞してみてはいかがだろうか。レンタル店で借りるもよし、オンラインの動画配信サービスを利用するもよし、あるいはブルジョワにDVDを購入してしまってもよいかもしれない。

 

  

 

ちなみに、以下のFOXJAPANへのリンクから、いまならもれなくシーズン1の第一話である「ナイト・ゼロ 」(NIGHT ZERO)が無料で視聴可能となっている。いつリンクが切れてしまうかもわからないが、お試し視聴には丁度よいのではないだろうか。

 

 

というわけで、いずれ訪れる後編で、あるいはまた別の吸血鬼話で、再びお会いいたしましょう。

 

アディオス、アミーゴス。

 

 

 

 

月白貉