ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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月夜の信仰

祖父の論文に書かれていたのは、真っ白い毛を持つ巨大な猿を崇める信仰の話だった。

 

今現在、白山八幡神社の鎮座する場所は、かつてその山を御神体とする山岳信仰の聖地であり、ずいぶん長い間この土地の人間でさえも入ることを許されなかった、あるいは許されなかったのではなく、入ることが拒まれた忌み嫌われ恐れられていた場所だったそうだ。ただその最後の記録にしてもずいぶんと昔まで遡る話で、言い伝えを聞いた古老のそのまた聞伝えの言い伝えを聞いた古老の話のような、いまとなっては遥か永劫の時の彼方に忘れ去られた異次元のような記憶としてしか、その姿を留めてはいない。

 

その信仰を興した集団は、土着の人々ではなく、ある時何処かから四五十人でこの地に入り、その山で暮らしだしたという言い伝えがある。朱色の縄で山の周囲に結界を張り、聖地だと称してその山を封じ、その山から出ることなく長い間暮らしていた人々だったという。もちろん生活のために、時折幾人かの人々が山を降り、ごくごく限られた土地の者との接触はあったそうだが、その山に住む人々は、頭の上から足の指先まで、長い毛に覆われていて、手足には長く鋭い爪、口には牙を持ち、目は真っ赤に血走り、よもや人間の類ではないと恐れられていたそうだ。

 

ある時、隣山に狩りに出た若者が道に迷い、その山に迷い込んでしまった。位置を確かめるためにと山の頂上まで登り出た若者は、見たこともないような白い毛を持つ巨大な猿が、人間を両手に握りしめて唸り声を上げながら貪り食ってる姿を目に映したという。

 

またその山の麓に暮らす老人の話では、ある月の明るい夜に、外からこの世のものとは思えないほどおぞましい、何か聞いたことのない獣の鳴き叫ぶような声が聞こえたので何かと思って恐る恐る表へ出ると、山の頂に巨大な猿のようなものの影が映しだされていて肝をつぶし、それ以来月夜の晩には決して外には出ないという話も残っているという。

 

山に何処よりかもわからぬ民が暮らしはじめて以来、山での、あるいは山の周辺での怪異が後を絶たず、それも大方は月の出ている夜のことだという噂が立ち始めてから、土地の人々は、あの山のことを「月魄山」と呼ぶようになったという。

 

祖父と三賢人との月に一度の晩餐会は、いつだって大盛り上がりの極みで、結局は酒に潰れた三賢人をそれぞれの家族が迎えに来ることでお開きとなるのが常だった。一方ぼくの祖父はといえば、浴びるように酒を飲んだ後でも一向に顔色は変えずに、まだ飲み足りないような素振りを見せていることも、また常だった。

 

ぼくは酒こそまだ飲めない立場だったが、その晩餐会と称する時間に話される会話の内容が実に興味深かったのと、もっと言えばその四人が醸し出す空間の居心地のよさが癖になって、母の許しが得られる時には出来る限りその会に参加していた。

 

その日も、賑やかだった晩餐会は終りを迎え、祖父は少し項垂れて、ちゃぶ台の脇に寂しそうに胡座をかいていた。

 

「ねえジジ、ジジの論文、最初の少しだけ読んだよ、すごくおもしろい。」

 

「ああ、そうか、そりゃあ、おもしろいぞ、おもしろいだけじゃ済まないけどな。」

 

「月魄って名前、あの山の名前はそんなだったんだね、山のさ、反対側の場所は、たしか月白って言うよね。」

 

「ああ、ありゃあ名残だ、こちら側の奴らが押し付けたんだ、あっちはもともと違う集落でな。」

 

「えっ、なんで押し付けたの?」

 

「あいつらを猿に喰わせたかったからだろ、山の裏に住む人間は猿には喰われんかったそうだよ。猿に喰われるのはこちらの集落の人間ばかりだ、そう言ってな、あっちの奴らも喰われてしまえばいいと言って、そうやって名前を押し付けたのさ。本当ならだ、困難があれば、助けを求めて力を合わせればいい、それが筋だろう。まあ細かいことはわからんがな。ただ人間はそうはしないのさ、こっちの水は苦いのに、なんであっちの水は甘いんだと思うわけだ。じゃあ、あっちの水をもっと苦くしてしまえと、そう思ったんだろう、どこも同じさ、人間なんてそんな程度のものでしかないのさ。」

 

ぼくは、蚊の鳴くような声で「そっか・・・」と呟いた。

 

「さて、お開きだぞ、もう真夜中だろ、家まで送っていくからな。」

 

「大丈夫だよ、すぐそこだから、ひとりで帰れるよ。」

 

「駄目だ駄目だ、猿が出たらどうする、大猿がでたらどうするんだ、ひよっこのお前じゃどうにも出来んだろ。」

 

祖父はそう言ってスッと立ち上がると、ちゃぶ台の湯呑みに残った日本酒を天井を仰ぎながらグビリと飲み干し、こちらに歯をむき出した笑顔を向けた。

 

 

 

 

古代日本の月信仰と再生思想

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白山信仰と能面

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月白貉