ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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寒冬

大寒波が町を襲った日の翌日、

 

雪の薄っすら降り積もる荒れたあぜ道をサクサクと音を鳴らしながら踏み歩き、近所の溜池まで日課の犬の散歩に出かけた。

 

東西におよそ五百メートル、幅が七八十メートルほどある細長い溜池には食品用のラップフィルムに似た薄い氷が一面に張っていて、その氷上の所々で、風に舞った粉砂糖のようなさらさらの雪が、雲間から覗く太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。その様子を何気なく目に映していたら、なんだかたくさんの子供たちがはしゃぎながら駆け回っているようにも思えた。

 

連れていた犬がワンワンワンと言ってやけに吠えるので、溜池の遠く西側の端の方の、犬がワンワンワンと鼻先を向けているその方角にはっとして目をやると、溜池に張った薄い氷の上に、

 

イヌイットが身にまとうこげ茶色アノラックのような、フードに際にモシャモシャと毛の生えたコートを着込んだ小さな女の子がぽつんと突っ立っている。

 

あんな薄い氷の上にいたら危ないじゃないかと、誰か保護者は一緒に来ていないのだろうかとずいぶん心配に思ってあたりを見回したが、女の子の周りにはひとっこひとり付き添いらしきものはおらず、ヒューヒューという風の音だけが勢い物凄く唸っている。

 

「お〜い、お〜い、そんなところにいたら危ないよ〜、はやく土手に上がりなさ〜い!!!」

 

女の子のいる場所までは、だいたい百メートルほどだったろうか、大声を張り上げながら、犬の紐をグイグイグイと引っ張りながらそちらに向けて駆け寄ってゆくと、その声に気が付いたのかどうかは知らないが、女の子がこちらに顔を向けたように見えた。そして急に体を震わせながらその氷の上でトントントントン激しく足踏みをするような動作をし始めた。

 

「おいおいおい、ちょっとちょっと〜、ダメだ〜、そんなことしたらダメだぞ〜、氷が割れるよ〜、池に落ちてしまうよ〜!!!」

 

あと少しで女の子のいる場所までたどり着こうとした時、徐々に鮮明になってくる女の子の姿をよく見ると、その胸元あたりに両手でなにか黒いものを抱きかかえている。

 

それは表面がびっしょり水に濡れたように湿った質感の、真っ黒い色をした鳥のように見えた。あれはもしかしたら鵜だろうか。ただあの大きさからすると、まだ子どもの鵜かもしれない。溜池にいた鵜の子どもを捕まえようとして、うっかり氷の上を歩いて行ったのではないか。

 

そんなことも思いながら、女の子に必死で大声をあげつつ、息を切らしながらやっとの思いでその場所まで辿り着いた瞬間、女の子の足元の薄い氷がメリメリと割れて、一瞬にして女の子の体が溜池の水の中にボチャンと姿を消した。

 

「ひゃっ!!!」

 

と息をのんで急いで土手を駆け下りたが、氷の割れた辺りの、茶色く濁った水がユラユラと揺れて、大小絡みあった無数の気泡がプクプクプクと浮かんでくるばかりで、女の子の姿はまったくうかがえない。水の中で藻掻いているような騒ぎもない。もしや溜池の底の泥土に足を取られて身動きが取れなくなっているのではとも考え、助けに水に入ろうかどうか迷ったが、ドロドロと茶色く濁る水のその全容がまったくわからない中、迂闊に足を踏み入れて自らも溺れてしまってはことだと思い返し、では警察か消防に連絡せねばと、ダッフルコートの右ポケットから携帯電話を取り出そうとしていると、再び犬がワンワンワンと言って背後で吠えている。

 

携帯電話を手にして後ろを振り返ると、

 

年の頃で六十七十と思われる白髪の男性が、杖をついて土手沿いをこちらに歩いてくるのが見える。

 

あるいはあの女の子の身内ではないかと思い、大声を張り上げて老人に声をかける。

 

「溜池に女の子が落ちました!!!あなたの、あのこはあなたのお孫さんではないですか!?」

 

老人はその声を聞くなり、「はっ!」という表情をして、杖を頭上に振り上げて左右に細かく振りながら、今さっき駆け下りてきた土手の上のところまで小走りに寄ってきた。

 

「あんた、いかんいかん、そりゃあ私も向こうから見ていた、あなた、あれは女の子じゃありませんよ、あぶないから、まずは早くこっちにあがりなさい、こっちに早く!」

 

老人は土手の上からこちらに身を乗り出して、こっちにこっちにと杖を激しく振り回している。

 

「女の子が落ちたんですよ、氷が割れて溜池の中に、早く助けないと!!!」 

 

そう叫びながら慌てて四つん這いになって土手を駆け上がると、老人は違う違うと首を大きく振った。

 

「あれは女の子なんかじゃあない、あれは鳥ですよ、あなた、あれは鳥ですよ!」

 

老人の言葉を遮って、再び大声を出して必死で訴えかけていると、背後の溜池のずいぶん遠くの方からケラケラケラという不快な甲高い笑い声のようなものが響いてくるのが耳に入ってきた。その声に反応して溜池のほうに向きなおって、なんだなんだと声のする方に目を向けてみると、溜池の向こう岸に近い氷の上に、先ほど水の中に沈んでいった女の子が立ってこちらを見ているような姿がうかがえた。

 

「あれっ!!あれはさっきの、なんだ、なんだ、溺れてやしなかったのか・・・。」

 

女の子が無事だったことでいっきに気が緩んでふうと息を吐き出しはしたが、はてどうも様子がおかしい。女の子が水の中に沈んでからずっと周囲には目を見張っていたけれど、溜池の水面には一切、女の子の姿は浮かんでなどこなかったし、まして女の子があちら側に泳いでゆくような姿もなかったはずだ。一体どうやって、そしていつの間に、百メートルほどはあろうかというあんな遠くの対岸までたどり着けたのだろうか。しかも今は真冬で、氷の張るような時期の溜池の水など、あんな小さな子どもがつかっていられるような温度ではないだろう。そう思いながら、女の子の立っている対岸のあたりを呆気にとられて見ていると、後ろから老人が肩をたたいた。

 

「あなた、お聞きなさい、だからあれは女の子じゃないと言いましたでしょう、あれは鳥ですよ、鳥なんですよ。」

 

今起こっていることの状況がまったくつかめず、目の前で老人が話している言葉の意味がさっぱり理解出来ず、しばらく無言のままその老人の目をじっと見つめていたが、ふと、この老人はなぜ女の子のことではなく、女の子が抱きかかえていた小さな鵜のことばかり言っているのだろうかと不可思議に思い、「いやいや鵜のことじゃなくて、女の子が、」と再び切り返すと、

 

「いやいや違う違う、そうじゃないのです、あれは女の子でもないし、鵜でもない。あれは鳥ですよ、鳥がまだ小さい子を抱えているんです。子はまだひとりでは飛べやしないので、ああやって抱えて育てるんです、あの小さい鳥のほうは、まだ体も黒かったでしょう、何より、まだ鳥類のような姿をしていたでしょう。」

 

老人は一度言葉を区切り、足元でハフハフ言っている犬の頭をよしよしよしと叩いてから、話を続けた。

 

「あなた気をつけなきゃいけませんよ、もう少しであの鳥の餌食です、あれは危ないんだ、ほんとうは国がどうにかしなければいけないのに、まったく今も昔も国というやつはいつだって何もしやしない。ちょっと待って下さい、あんなところにあれがいたら、また誰かを呼びかねないから、いまのうちにあれを遠くに追い払わなければなりません、あれは“渡り”ですから、まだ寒い季節のうちに追い払ってしまわないと。」

 

そう言うと老人は肩にかけた茶色い革製の鞄のチャックを開けて手を突っ込み、何かゴソゴソゴソとやりながら再び足元でハアハア舌を出して戯れる犬によしよしと嬉しそうに語りかけた。

 

しばらくして、ゴソゴソやっていた老人が鞄から取り出したものは、煙草を吸うための木製のパイプのようなものだった。

 

それを見てまず、シャーロック・ホームズがいつも口にくわえているというイメージが頭に思い浮かんだが、わざわざ口には出さなかった。ただその先端の膨らんだ部分が、通常のパイプとは大きく違っていて、人間の首を象ったような精巧な細工が施されていた。

 

細かく彫り刻まれて表現された顔は日本人か、あるいはモンゴロイドのようで、目があり耳があり鼻があり口があった。頭部には乾燥させた植物の繊維のような素材でチリチリとした髪の毛まで付けられていた。目の部分には青緑色のターコイズのようなものがはめ込まれていて、左耳の耳タブにも同じくターコイズのようなもので楕円形のピアスであろうものが付けられていた。そしてずいぶんとシャクれ気味の口には、パイプでいうところのタバコを入れて火をつける部位のような穴が開いていて、おそらくはパイプと同じように奥の奥まで、口をつけるマウスピースの先端までのびているようだった。そしてその口の穴の内側の際には、ターコイズとはまた別の白色の鉱物、あるいは貝殻のようなものでたくさんの歯までもが細工されていた。髪の毛は耳の上ほどまで垂れ下がるオカッパ頭だったが、

 

頭頂部の髪の毛だけが綺麗に丸く剃られていて、古の修道士だが、宣教師のフランシスコ・ザビエルだかを連想させるようなものだった。

 

そのあまりにも精密な、芸術作品のような造形についつい見とれていると、老人がそのパイプをおもむろに口にくわえて、「スゥゥゥ〜」という音を立てて鼻から息を吸い込んだ。そして背筋を伸ばすようにして胸を目一杯に張り上げると、顔に真っ赤な血を駆け巡らせ、頬をトノサマガエルみたいに膨らませて、ものすごい形相でパイプに息を吹き込んだ。

 

「ウオォォォォォ〜」

 

パイプの先端の人間の首が、今さっき断首されたばかりの生首のような禍々しく不気味な気配を醸しだし、周囲には何か腐敗物ような吐き気のする不快な臭いが漂い始めた。同時にパイプの口の部分からは白く光る塵のような煙のようなものがモワモワと噴き出し、背の異常に高い男性の唸り声、もしくは異端の修験者が吹き鳴らす特殊な法螺貝の音ような重苦しい音を鳴り響かせた。

 

老人は一吹きするとパイプからはすぐに口を離してしまったが、パイプから鳴り響く音はその後もまったく鳴り止まず、どんどんと音量を増しているように感じられた。さらには噴き出している塵か煙のようなものも、その音の大きさに比例してどんどんと量を増し、老人の頭上で小さなハリケーンのように渦を巻き出していた。

 

パイプから噴き出すモクモクとしたものによくよく目を向けてみると、それはとてもとても小さな小さな、そして鈍い銀色の体をした甲虫のようで、パイプから鳴り響いていると思っていた音は、どうやらパイプから止めどなく湧き出す、何百何千という数にも思える大量の甲虫が羽を震わせる音だった。

 

その正体を知ってギョッとして肝を潰しそうになり、けれどなんとか気持ちを入れなおして老人に話しかけようと、その顔に目を向けると、老人は口先にパイプを構えたまま、目だけ足元の犬のほうを見下ろして、ニコニコニコと穏やかな笑顔を浮かべている。

 

パイプの口から湧き出してきた甲虫の大群は、空中に黒い線を描くように隊列を組んで、溜池の対岸の女の子の方に飛んでいっているようだった。

 

どんどんどんどん長くのびてゆく甲虫の隊列の先端が、対岸の女の子にもう少しで届かんとするところまで到達すると、突然、女の子が癇癪を起こしたように手足を狂ったようにバタバタと振り回しはじめ、次の瞬間、肩のあたりから巨大な鳥の羽根のようなものが、バサリバサリと広がるのが見えた。

 

背筋に、首元から入って腰まで抜ける、突き刺さるような悪寒が走り、厚く着込んだ服の下の両腕に、ザワザワと波打つ鳥肌が立つような感覚があった。

 

その羽根は黒く濡れて湿っているような質感を帯びていて、鳥の羽根というよりはどちらかと言えばコウモリの翼という表現により近く、血管の浮き出た薄い皮とゴツゴツと歪んだ無骨な筋や骨で組み上げられているその影は、邪悪な凧のようにも見えた。聖書の場面を描いた絵画でいうならば、

 

それは天使の持つものではなく、完全に悪魔の持つものだった。

 

「ウギヤァァァァァァァァ〜ッ!!!!!」

 

今までに聞いたことのない、感じたことのない空間の震えが、溜池のこちら側にまではっきりと、押し寄せるように響いてきた。

 

巨大な翼を持つ女の子の姿をしたものは、大きく広げたその翼を再び背中に折りたたみ、溜池の対岸の土手を四足のような恰好で駆け上がると、そのまま隣接する大きな雑木林の中へ、野生の獣が追い立てられて身を隠すような速さで消えていった。黒々とした無数の甲虫の隊列は、その何かが走り去った残像を標すように、そしてどこまでもそれを追尾するように、どんどんと雑木林の中に吸い込まれていった。

 

気が付くと、老人の手に持たれたパイプからは、いつの間にか甲虫の湧き出しは止んでいて、その羽音も甲虫の群れが遠ざかると共に、徐々徐々に、雑木林の奥へと奥へと進むようにして、聞こえなくなっていった。

 

老人は「ふ〜っ」と言って小さなため息を付くと、手に持ったパイプを太ももの所でトントントンと数回叩いてから、もとの鞄の中へ無造作に仕舞いこんだ。

 

そして土手にしゃがみこんで、犬の頭をよしよしよしと撫でてから、「じゃあ、ごめんくださいね、ワンちゃん。」と犬に小声でやさしく言った後に、立ち上がってからこちらにも笑顔を向けて「それじゃあこれで、ごめんください。」と言って、そのまま溜池の土手沿いを歩き出していってしまった。

 

頭を撫でられた犬が、雪のわずかに残る地面に寝転がって腹を天に向けて、コロコロコロコロと気持ちよさそうに揺れてる。

 

「ちょ、ちょっとちょっと、ちょっとすみません、あの、あれはいったい・・・。」

 

老人はこちらには二度と振り返らずに、ゆっくりとした歩を止めもせずに、杖をどんよりと濁った天空に向けて一直線に掲げてから、クルクルクルクルとその杖先を何度か回した。

 

その杖の先を口を開いたまま見上げていると、空からぼってりとした雪が舞い落ちてきていた。

 

またいずれ、大きな寒波がやってくるのだろうか。

 

お題「雪」

 

俳句用語用例小事典(4)雨・雪・風を詠むために

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風の事典

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