ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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映画鑑賞概論 - 夜店の焼きそば考 -

つい先日、スター・ウォーズの最新作、「フォースの覚醒」を鑑賞するため映画館に足を運んだ。

 

 

映画を鑑賞後にふと思ったことがある。

 

気付けば最近ずいぶん久しく映画館に映画を観に来ることがなかった。最後に映画館で観た映画はぁ~、え~と、と地面にうずくまって両手で頭を抱えて考え込んでしまうくらい、映画館とはご無沙汰していた。

 

何故かと考えると、ぼく自身の場合においては、たぶんそれほど決定的な理由などは存在しないんじゃないかとは思うのだけれど、強いて言えば、ここ数年暮らしていた地域の近隣に映画館がひとつもなかったこと、あとはまあタイミングの、あるいは運命のズレあたりが有力候補なのかなあと、そう考えている。

 

せっかくなので、まあ、ぼく以外にも当てはまりそうなもうひとつの具体的な理由をあげるとするならば、ビデオレンタル店(昨今はビデオなんてレンタルしているところは非常に少ないから、まあビデオレンタルって言葉は当てはまらないかもしれないけれど、でも希少なビデオレンタル店は地方にはわりとあるのです。)、あるいはインターネットや衛星放送の映画専門チャンネル、オンデマンドの映画放送サービスなどなど、そのへんの存在あたりがもっとも有力だということは、おおよそ間違いはないだろう。

 

 

近頃の映画は、劇場公開から半年もすれば、そのほとんどの作品がDVDあるいはBlu-rayなどのソフトになったり、映画見放題の各種サービスでいつでも好きなときに鑑賞できたりして、圧倒的に世に氾濫してしまう。

 

ソフトを借りたりサービスに加入しさえすれば、自宅のテレビはおろか移動中のスマートフォンタブレットで気軽に、時間を気にせず、そしてずいぶんと安価に映画を観られるシステムが存在するのだ。そういうものが、多くの人々が映画館を訪れなくなる原因の一端を担っているんじゃないのかなとは大いに思う。

 

ぼくが幼い頃、映画は何と言っても最大の楽しみだった。

 

小学生になるずっと前から映画好きの父に連れられてよく映画を観に行っていた。小学生になってからも、まあ月に一度とはいかないまでも、ずいぶん頻繁に映画館に連れていってもらっていたような覚えがあるし、当時テレビではたくさんの映画番組が存在していて、そのほとんどをビデオに録画してもらって、毎日毎日観返していたことも思い出す。小学生の後半になった頃には、必死で映画専門誌を読み漁り、その後、中学そして高校大学と、いつだってぼくは映画のことばかり考えていた。

 

いやあ!映画って本当にいいもんですね (1977年)

いやあ!映画って本当にいいもんですね (1977年)

 

 

ぼくと同じように映画が何よりも好きな友だちと日に何本も映画館をはしごして映画を観た日々。女の子とのデートには必ず映画館を選んでいた日々。もちろんひとりでも、映画館の最前列のど真ん中を陣取って映画を浴びていた日々。

 

けれど徐々に映画を自宅で鑑賞することができる手段も増えだし、ぼくももっぱら自宅で映画を鑑賞するようになった。大学生の頃にはまだかろうじて映画館にもよく通っていたが、ビデオレンタルでも毎日のように映画を借り続けていた。一日一本は当たり前だったし、多い時には一日に三本とか四本の作品を観ることも珍しくなかった。そして大学を卒業するころには、自宅で鑑賞できる手軽さとその単価の波に押し流され始め、映画館に足を運ぶことがずいぶんと減ってしまったのだ。

 

ここで少しだけぼくが読んでいた映画雑誌の話を挟もうと思う。

 

ぼくが愛読していたのは日本映画にはあまり言及しない洋画専門誌で、現在でも存在する「スクリーン」派ではなく、惜しくも休刊してしまった「ロードショー」派の方だった。

 

1972年の3月に創刊された映画専門誌「ロードショー」は、2008年11月21日発売の2009年1月号を最後に、休刊してしまった・・・。

 

ROADSHOW (ロードショー) 2008年 12月号 [雑誌]

ROADSHOW (ロードショー) 2008年 12月号 [雑誌]

 
ROADSHOW (ロードショー) 2009年 01月号 [雑誌]

ROADSHOW (ロードショー) 2009年 01月号 [雑誌]

 

 

理由はやはりインターネットの普及による情報の氾濫、おのずとその部数も減り、それに伴った広告収入の減少が大きな理由だと言われている。最盛期の発行部数は35万部を超えていたそうであるが、休刊に追い込まれる頃には平均発行部数がわずか5万部にまで減っていたそうだ。

 

「ロードショー」が休刊されることを知った時にはずいぶんと胸が傷んだ。

 

路地裏の薄汚れた壁に頭を打ち付けて、こう叫びそうになった。

 

「読者として、きちんとロードショーを支えるべきだった!」

 

ぼくはもうその頃には、書店や図書館で立ち読みすることはあっても、昔のようにきちんと購入して家の本棚に並べ、朝にも夕にも隅から隅まで隈なく、そして何度も何度も本が擦り切れるくらいになるまで目を通すようなことはしなくなっていたからだ。かつてはそうじゃなかったのに。それは特に映画が嫌いになったわけではなかった。その頃でも、そしていまでも、映画はぼくにとって食事と同じようなもので、生きてゆくのに無くてはならない存在なのだ。

 

幼い頃の映画好きがこうじて、ぼくは結局大学で映画学科に入った。

 

その背中を押してくれたのは、ある一面においてはたぶん「ロードショー」だったと思う。いつかあんな映画が撮りたい、こんな俳優を使ってみたい、あるいは自分も俳優として映画に出演してみたい。いつだってやけに興奮しながら雑誌のページをめくっていた若かりし日々。好きな監督や俳優の近況に胸踊らせ、映画人の似顔絵コーナーにも何度か投稿し(採用はされなかったけれど・・・)、時々付録で付いてくる俳優名鑑を日がな一日読み返して、ほとんどの監督や俳優の顔と名前を無駄に暗記したりしていた。

 

外国映画男優名鑑 (MOOK21)

外国映画男優名鑑 (MOOK21)

 
外国映画女優名鑑 (MOOK21)

外国映画女優名鑑 (MOOK21)

 

 

今だって映画に対する愛は変わらないけれど、昨今映画館にほとんど足を運ばずに映画が好きだなんて言っている自分は、なんだか「ロードショー」を支えられなかった自分と同じでちょっと格好悪いよなあと、少しだけ自分を恥じてみたりもする。もちろん、近年の映画のクオリティーに文句がある部分も少なからずあるし、是が非にも観たい映画は映画館で観てはいるのだけれど。久しぶりの映画館体験を踏まえて、そしていまは亡き「ロードショー」への思いも含めて、ここでひとつもの申してみる。

 

最近映画館をめっきり利用していないぼくが言うのもなんなのだが、映画は映画館で観るべきものである。

 

なぜなら映画は映画館で観る為につくられた芸術作品だから。そしてそれはなにも、大画面の映像的な迫力や最新鋭のデジタルな音響効果にばかり求められるものではなく、もっと根本的な意味でのことにある。

 

映画とは何か(上) (岩波文庫)

映画とは何か(上) (岩波文庫)

 
映画とは何か(下) (岩波文庫)

映画とは何か(下) (岩波文庫)

 

 

それはたとえば、夏祭りの夜店で売っている焼きそばを、家に持って帰ってきてから食べても、大してどころかまったく美味しくないのと似ている。

 

夜店の焼きそばってものは、祭り囃子の音が響き渡る夕暮れ時に、たくさんの屋台が立ち並び人混みに溢れかえった参道を歩きながら、あるいは神社境内の小脇の薄汚れた石段に腰を掛けて好意を寄せる女の子と喋りながら、そうやって食べてこその真の美味しさというものが、確実にある。

 

映画もそれと同じことで、映画の本当の美味しさが味わいたいのであれば、やはり映画館という特別に用意された場所で観なきゃいけないと、それこそが真の映画の味なんだと、ぼくはそう思う。それは非常に重要なことなんだとも思う。利便性や金銭的なことばかりで頭が膨れがちな近頃の人々は、そういう本当の「美味しさ」や本当の「楽しさ」をあまりにも忘れすぎている。それはやはり残念を通り越して、危険ですらあるというのが、ぼくの思いである。

 

というわけで、ぼくも出来るだけ映画は映画館で観るように善処してゆきたく、そのことを踏まえた上で、「ぼくは映画を愛してやみません!」と豪語することにしようと思う、今日この頃である。

 

 

 

 

 

月白貉