ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲が自らの感覚で日本を歩きまわって見聞を広めたように、故郷を離れて旅を続けるぼくが、ぼくの感覚でその土地を歩き回って、見たり聞いたり嗅いだり触ったりした、ぼくの見聞録です。

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明
明

失踪

兄が失踪してからすでに二ヶ月が過ぎていた。

 

もちろん、ヒマラヤにゆくと行って家を飛び出していった兄が、ぼくの知っている本当の兄ではなかったのだとしたら、いったい何時の時点からを兄の失踪とするかはわからない。

 

ぼくが小学生の時、兄とカンマと一緒にシロヤマさんの裏山で体験したあの恐ろしい出来事の際にも、大猿に引きずられて森の中に消えた兄は、三日間もの間、行方知れずとなっていたのだ。もしかしたらあの時からすでにもう、兄の失踪は始まっていたのかもしれない。

 

ぼくはあの時、兄に言われた通りにひとりで裏山から駆け下り祖父を呼びに向かった。

 

けれど、その時祖父は家にも市立図書館にもいなかった。祖父がいそうな場所といえばその二箇所しか知らなかったぼくはどうしていいかわからず、結局は自宅にいる父と母に助けを求めた。

 

ぼくはもともと体があまり強い方ではなく、運動も苦手だった。

 

兄は町内の草野球チームに所属していたり、近所のスイミングスクールに通っていたりしたので、父も母もぼくに兄と同じような運動をすすめたのだが、ぼくは頑なに「嫌だ」と断った。学校を休みがちだったぼくは体育の授業などにはほとんど参加したことがなかったし、学校で行われる運動会やマラソン大会などの運動イベントにも、当然のように一切参加していなかった。

 

だからぼくは日常的には、運動らしい運動なんてものをほとんどしていなかったし、まして長距離を走り続けた経験など当時は一度もなかった。けれど、その日のその時の事情は違っていた。日常と呼ばれるものなど、そこにはいっさい転がってはいなかった。どんなに小さな日常の欠片ですら、そのすべてがぼくから奪い取られていた。

 

だからぼくは走った。

 

シロヤマさんから祖父の家を経由して市立図書館まで、そして再び祖父の家をもう一度経由して自宅まで、ほんとうに止まることなく走り続けた。距離にしておよそ10キロ、ぼくは一心不乱に走り続けた。

 

「ジジ、ジジ、お兄ちゃんが、カンマが、助けに行かなくちゃ、早く、早く、ジジを呼びに行かなくちゃ。」

 

ぼくの目には、町の景色や周囲を歩く人々や、空や雲や、蹴り返す地面や、自分の目にたまった溢れかえらんばかりの涙さえも、まったく見えてはいなかった。ぼくの目に見えていたのは、大猿に引きずられてゆく苦痛に顔を歪めた血だらけの兄と、うずくまって泣きじゃくるカンマの姿だけだった。そして耳に響いてたのは、自分が今なすべきことを何度も何度も繰り返すぼく自身の声と、そしてその言葉をかき消すように背後から押し寄せてくる、大猿の「シューシュー」という息遣いだった。

 

「助けて、はやくジジを呼びに行かなきゃ・・・早くしなきゃ・・・お兄ちゃんが・・・早くしなきゃ・・・」

 

自宅の前までたどり着いたぼくの目に映ったのは、車で買い物に出掛けようとしていた父と母だった。

 

二人の姿を目にしたぼくはもうまともに息が出来なくなっており、そのまま自宅前のアスファルトの道路に棒きれみたいに倒れこんだ。

 

その後のことはよく覚えてはいない。

 

倒れ込んだ瞬間、ぼくの体がアスファルトの中に沈み込んでゆくような感覚があったことは覚えている。アスファルトは生暖かくて、ポケットの中で溶けてしまったグニャグニャのチョコレートみたいに柔らかかった。その柔らかくなったアスファルトに、ぼくは音もなく飲み込まれてゆく。沈み込むスピードは思ったよりも早く、もう口も鼻も半分くらいはアスファルトの中で、息はできない。

 

遠のく意識の中で最後にぼくが見たものは、ぼくのすぐ目の前で、毛むくじゃらの巨大な生き物に引きずられてゆくぼく自身の姿だった。ぼくが裏山から駈け出したその瞬間からずっとぼくを捕まえようとして、「シューシュー」と呼吸をしながら追いかけてきたその生き物がついにぼくを捕まえて、兄と同じように、あの深緑色をした闇の中に引きずり込んでゆく。

 

「ジジ、お兄ちゃんが・・・早く・・・」

 

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月白貉