ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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大猿

カンマの泣き叫ぶ声がその場の静寂を破ると同時に、兄は立ち上がって彼女のいる方に向きなおり、アメリカのホラー映画に出てくる狼男が月に吠えるみたいな雄叫びを上げて、背中の真っ赤なリュックサックに差し込んであった木製のバットを引き抜いた。

 

それはいつもぼくが目にする兄の野球用のバットではなく、ヘッドからグリップのあたりまでのほぼ全面に何かボコボコとした黒い瘤のような物が付着していて、地獄絵図に出てくる鬼たちが携えている巨大な棍棒のように見えた。

 

左頬の傷跡から流れだす赤黒い血液をTシャツのいたるところにこびりつかせた兄が、その異形のバットを両手で振りかざして、カンマと大猿のいる方に向けて猛ダッシュで走ってゆくのが、ぼくにはスローモーションのように見えていた。

 

「ジジ呼んできてくれ〜っ、マサヒコ〜っ!!!!!ジジ呼んできてくれ〜っ!!!」

 

その場で硬直して身動きがとれずにいるぼくに、兄はそう叫び続けながら大猿の背中に突進していった。次の瞬間、兄に背中を突き飛ばされた衝撃で一瞬よろめいた大猿が「ザザザーッ」という音と共に地面に倒れこみ、兄もその勢いのまま足をもつれさせて大猿の横に倒れこんだ。

 

「足が痛え〜っ!!!マサヒコ〜っ、早く、ジジ呼んできて〜っ!!!!」

 

「わ、わ、わかった、すぐジジ呼んでくるからっ!」

 

ぼくはなんとか声を絞り出して、目を瞑ってあらためて自分に言い聞かせた。

 

『よし、早く行かなきゃだ、早く、早く、早く行かなきゃだ、ふたりが殺されちゃう。』

 

ガクガクと激しく震えてまったく思うように動かない両足を自分の拳で必死に何度も叩きながら、ぼくは苔むした石の参道の上を駈け出した。その直後、背後から兄が何か叫んでいるのが聞こえたような気がして、もう一度振り返って兄のほうを見ると、大猿はすでに起き上がっていて、うつ伏せに倒れている兄の上に覆いかぶさるように四足に構えて立っていた。そして「シューシュー」という蛇の出す威嚇音のような声を発しながらゆっくりと兄の頭に顔を近付け、その顔が兄の頭に密着するくらいまでに近づいた瞬間、まるで口から毒液を吐き出すみたいにして、「グェギャーッ!!!」という不快な鳴き声を兄に浴びせかけた。

 

兄が「クソ〜っ!!!」と声を上げる。

 

大猿は首を左右に振りながら周囲に気を配るような仕草をして、おもむろに地面に倒れて足をおさえながらもがいている兄の髪の毛を巨大な手で握りしめると、ズリズリと引きずりながら歩き始めた。そのすぐ横ではカンマが頭を抱えてしゃがみ込み、呼吸を引きつらせて泣き続けている。ぼくが両手で虚空を掴みながら体を震わして泣きそうになるのをこらえている間に、兄の体はグングンと大猿に引きずられて、深緑色をした茂みの中に飲み込まれていった。

 

「ジジ、ジジ、ジジ助けて・・・、ジジ呼んでくるから〜っ、お兄ちゃん、ジジ呼んでくるから〜っ!!!」

 

ぼくは、その小さな体に今残っているすべての声をかき集めて、そう兄に叫んで再び駈け出した。

 

ぼくの背後の遠ざかる闇の中で、もう一度だけ、何かの雄叫びのような声が響き渡った。

 

類人猿分類公式マニュアル2.0  人間関係に必要な知恵はすべて類人猿に学んだ

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私の息子はサルだった

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月白貉