ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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黒猫

ある日のたそがれ時、とある公園脇の小川沿いを足早に歩いていると、百メートルほど先に見える公園と小川をつなぐようにかけられた小さなアーチ型の橋の上に、歳の頃で言えば五、六歳くらいの子どもがしゃがんでいるのが見てとれる。

 

その風貌から察すると、どうやらそれは女の子のようだと伺える。髪の毛は耳が半分出るくらいの短いオカッパ頭、上は濃いめの緑色のセーターを着ていて、下はやや色あせたようなこれまた緑色に近い七分丈ほどのジーンズのようなものをはいている。背中にはどうやらリュックサックを背負っていて、これもまた緑色をしている。遠目には裸足のようにも見えるのだが、草履かビーチサンダルのようなものを履いているのかもしれない。

 

いまは冬の真っ只中、年の瀬の十二月の終りで、ここ数日は雪の舞う日もある。こんな季節に足の露出が大きな履物はずいぶん寒いだろうと思いながら、どんどん橋の方へと歩を進めてゆく。

 

女の子の周囲には保護者らしい大人の姿がまったく見えないところからすると近隣の家に住む女の子だろうか、とそんなことがふと頭をよぎる。

 

ぼくがこの土地に住み始めてから一ヶ月が経つ。間借りしている部屋から近隣のスーパーマーケットまでの買い物がてらに、公園脇の小川沿いを歩くようになってからの間、ほぼ毎日そのアーチ型の橋を渡って公園を横切るのがお決まりのルートとなっているのだが、その橋の上に女の子を見かけるのは、これがはじめてだった。

 

ぼくが橋の突端に足をかけるところまでやってくると、橋の上の女の子はぼくの予想とは反して草履もビーチサンダルも履いておらず、まったくの裸足だった。そしてその小さな足の足元に何か真っ黒い毛玉のようなものがうずくまっている。女の子はその毛玉のようなものに向かって、実に神妙な顔をしながらしきりに話しかけているように見える。囁くような小さな声なのか、口をモゴモゴと動かしているのはわかるのだが何を言っているのか声は聞き取れない。時々首を横に振ったり頷いたり、女の子にしては少し筋張っていて大振りな両手で何かを形どったりしている。

 

あの女の子はいったい何に向かって話をしているのだろうという薄暗い気味悪さを感じながらも橋の上を数歩そちらに近付くと、その黒い塊がどうやら真っ黒い毛をした猫だということに気が付く。 相変わらず女の子は橋の中腹にしゃがみこんで、その足元にうずくまっている黒い猫にしきりに何かを話しかけている。よく見ていると女の子の口が動いたあとに、黒い毛の塊の奥の方で何か穴のようなものが開閉している。それが猫の口だということに気が付くまでにずいぶん時間が掛かるが、それでも見えるのはハフハフと開いたり閉じたりしている口の部分だけで、目や鼻や耳がどこにあるのかいっこうに見当がつかない。

 

いったい猫の頭はどんな体勢で奥の方に埋もれているのだろうと考えながら、音としては聞くことが出来ない会話のようなやり取りに目を凝らしていると、ふと不可思議な恐怖感に襲われる。 いまぼくが黒猫の口だと思っている部分の動きがどうも猫らしくはない。まるで人間の唇の動きのように複雑に言葉を紡いでいるように見える。猫のやるようなニャンとかニャアとかフガーではなく、明らかに人間たちがなにか言葉を発するときのそれとまったく同じような動きをしているように見える。真っ暗な闇の中で赤黒く光る人間の唇だけがぼくには見えていて、こちらに何か良からぬことを囁いているような錯覚に襲われる。

 

それはほんとうに黒猫なのだろうか、という疑惑がぼくの中で浮上し始める。勝手な思い込みでものを見始めると、それが事実ではなくても本当のことのように見えてしまうことがある。薄暗いたそがれ時に、遠目には人間だと思って近付いてゆくと、それはただの板切れだったという経験は誰しも持っているものである。 いつの間にか橋の突端で歩を止め、立ち止まったまましばらく女の子と黒猫らしきものとのやりとりに目を奪われているぼくに、唐突になにか鋭く研ぎ澄まされた刃物でも飛んでくるかのような冷気がざっと押し寄せた。今までは見えていなかった黒猫の目が突然ビュッと見開かれて口の上に現れ、その視線がシュッとぼくの方に移動した。その視線に気がついた女の子も「ぎゃっ!!」というような子供らしからぬ引きつった焦りの表情を浮かべながら瞬時にぼくの方に顔を向けた。その瞬間、ぼくの両腕には見たこともないような大波の鳥肌が立っていた。

 

黒猫の目が見開かれていたのは一瞬のことだった。そしてその目はずいぶん血走っている人間の目のようにも見えた。口の動きと同じように、それは猫のそれとは明らかに違って見えた。 ぼくが息を呑む暇もなく、黒猫の目はまたすぐに闇の中に消え去ってしまい、それと同時にいままでハフハフ開閉していた口も同じ闇の中に姿を消してしまった。先ほどまで認識できていた口の場所も、そして目の位置も、もうどこにあるのかすらわからなくなった。そこには真っ黒い毛玉のようなものがピクリとも動かず転がっているだけだった。

 

女の子は再び黒猫の方を向きなおって再び何か口をモゴモゴと動かしたが、先ほどとは打って変わって黒猫はそれに対して一切の反応をしなかった。もしかしたら反応をしなかったのではなく、ぼくの存在を意識して一時的に反応するのをやめているように思えた。その理由として、その真っ黒い毛玉の塊からは依然として何か凶悪な刃物でも向けられているようなおぞましい空気がぼくに吹きかかってきているからだ。夕暮れの橋の上で、ぼくはしばらく放心的にその場に立ち尽くしていた。 遠くから夕方の五時を告げるカーンカーンという鐘の音が鳴り響いたことでぼくは我に返る。

 

さきほどまでしゃがみこんでいた女の子が、両手で黒い毛玉の塊を抱えてぼくの方に、横に揺れるようなおかしな歩調で歩いてくるのが見える。とその次の瞬間橋の欄干に飛び乗ったかと思うと、黒い毛玉を抱えたままもう一飛して小川の水の中に飛び込んだ。

 

はっと息を呑んだぼくはすぐさまその欄干に身を乗り出して小川を覗きこんだが、そこには大きな波紋が広がっているばかりで、女の子の姿も、そして黒い毛玉の姿もなくなっていた。

 

大正期怪異妖怪記事資料集成 上巻

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月白貉