ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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六坊港 - 松江百景

島根に来てからいろいろな場所の海や港に行ったけれど、その中でも今のところダントツに海水が綺麗だった漁港がある。

 

というわけで今回の松江百景は、「六坊港」である、訪れた時には読み方がわからなかったが、「六坊(むつぼ)」と読むそうだ。

 

松江百景 - 六坊港 -

 

この小さな漁港には小さな小さな漁師町があって、他の漁師町の御多分にもれず迷路のように入り組んだ素敵な街並みを残している。けれど、多くの人がこの町から出て行ってしまったらしく、もうほとんど住んでいる人はいないとか。

 

驚くほどきれいな海水をたたえる砂浜でしばらくぼんやりしていると、漁師風の老人が「どっからきた?」と話しかけてきた。

 

その老人としばらく話をしたのだが、いまではほとんどの人がどこぞの町の方に出来たマンションに引越してしまって、いまでは空き家だらけだということだ。なんだか悲しい話だった。

 

ぼくが砂浜で老人と話をしているときに、どこかから車で魚釣りに来た家族があって、父と娘たちが港のテトラポットの上で釣り竿をたれ出した。

 

その光景を指さしながらぼくは老人に「ここはなにが釣れるんですか?」とたずねてみると、

 

「知らねえ、ワカメだかなあ。」とだけ言って、ひひひと笑いながら去っていった。

 

この港までぼくは山を二つくらい越えて歩いてやって来たので、さて帰りはどうしようかなあと思っていると、町にはバスが通っているらしくバス停が点在していた。でもバス停の表示を見ると、予約制と書いてあって、利用には予約が必要なコミュニティーバスということだった。利用する人が極端に少ないのだろう。

 

ものは試しだと思って記載されている電話番号に電話して聞いてみると、指定のバス停まで迎えに来てくるという。

 

「どこのバス停ですか?」と聞かれたので、「はい、ろくぼう?かな、読み方がわかりません。」というと、「ああ、むつぼね、トンネル抜けたとこね、はいじゃあいきま〜す。」ということで、しばらくするとバスがやって来て希望のバス停まで乗せて行ってくれた。たぶん、バスの路線上だったら、好きなところで降ろしてくれるんだろう。それにしても何時間もかけてやって来たこの港から、バスは山を迂回した舗装道路を通っているので、駅まではほんの10分15分でついてしまって、なんだか拍子抜けした。

 

その日、ぼくはこの港を目的地に定めて歩いていたわではないので、何時間も山を歩いて、港についた時の感動は一入であった。モノの見え方っていうのは、そういう過程にも大いに影響されるし、そういうことが大切だってことだろうなあ。

 

というわけで、機会があれば真夏にもう一度行ってみたい港である。

 

 

 

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月白貉