ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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お金は貸しますが、命は貸しませんよ。

死ぬこととは何かを問う前に、まずは今を生きていることとは何かを問うべきなのだが、多くの人々は日々、たぶん死ぬという区切りまでのことを、問うのではなく、ただ考えているだけなのだろう。

 

死ぬまでどうやって生きてゆこうか、死なないようにどれだけ生きてゆけるか、そういうことを、ただ当たり前のように考えているのだろう。

 

問うてはないのだよなあ。

 

いま生活するためにお金がいくら必要だとか、老後にいくらお金が必要だとか、死んでなお、さらにお金がいくら必要だとか、生きてゆくことも死んでゆくことも、結局お金が必要だという話にしかならない。

 

それはいったい自分が生きていくことと何の関係があるのかと思っちゃって、なんだかばかみたいな話で、ぼくは正直、そんなこと、どうでもいいなあと思うようになった。

 

お金は貸しますが、命は貸しませんよ。

 

「お金お金とは言わないけれど、けっきょく、最低限のお金がいるでしょ、生きてゆくためには。」と言う。

 

それはさ、そう言わないと生きてゆけないと多く人が盲信しているだけだったり、そういう仕組を作っている一部の人々に、騙されたり、騙されたふりをしているだけで、そんなことないよねって思いませんか?

 

お金がなくちゃ生きてゆけないなんて、悪魔に魂を売ってしまった哀れな人物の物語のようにしか、ぼくには聞こえなくなった。

 

生きてゆくためにお金が必要だから、お金を稼ぐために働いたりする。

 

あくせく働かなくてもお金が手に入るような仕組みを考える。人によってはお金が必要だから、誰かを騙したり、殺したりして、お金を奪ったりする。

 

生きてゆくために働くのではなくて、生きてゆくためにお金が必要だから、お金を手に入れるために働く。

 

人を騙したり殺したりするのは、生きてゆくためではなくて、お金が必要だから。

 

根本的には、生きてゆくということにはまったく関係のないところで、人間はお金が欲しくてあがいているだけのように思える。

 

たとえば日本で新しい総理大臣が選出されたとして、その人がこう言うとするよね。

 

「日本では貨幣の制度を廃止します。

 

この土地で生きるということを、国民がもういちど改めて、きちんと考えてみてください。そこから国を再生してゆきましょう。」

 

と宣言したら、そりゃいいよねって思うもの。

 

そう思いませんかねえ?

 

 

 

カイジ「命より重い! 」お金の話

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お金のいらない国

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月白貉