ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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人間を捕食するもの

人間を捕食の対象としている生物はぼくの知る限りでは、ほぼいない。

 

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まあ時には、ワニに食べられたり、サメに食べられたり、クマに食べられたりすることは、突発的にはあるだろうけれど、日常的な脅威として何者かに定期的に捕まって食べられてしまうということは、まあいまの生活ではありあえない。

 

ぼくは常々、人間を捕食する生き物が現れたらいいのになあと思っている。

 

それは貪り食われそうになることに興奮を感じるマゾヒズムなどではまったくなく、生きた心地の問題だと思っている。

 

人間を捕食しているのは、結局同じ種族である人間になっちゃってるのだなあ。それも人間の肉を目的にしているわけではなく、目的は人間が持っているお金なのだ。まあ、一部には肉が目的な人々はいるかもしれないけれど、それはここではちょっと置いておくけどね。

 

動物や植物を、生きてゆくためにとったり育てたりして食べている人間も、同等に自分たちがその立場にあるべきじゃないのかとぼくは思うのである。

 

よく言われることだけれど、たくさんの魚や、鶏や豚や牛の肉が皮を剥がれてバラバラにされてスーパーマーケットに並んでいる光景について多くの人々は残酷だなあ、などとは言わないのに、ある生物が他の生物を捕食している様を見せられると、「なんて恐ろしい生き物だ、残酷だなあ」と涙を流す人々がいる。じゃあぼくたちが日々食べているものはなんなのだと。

 

だからね、ある日、人間を捕食する、とんでもない生き物が現れてみたら、生きた心地がしなくなるだろうと思う。

 

生きた心地がしなくなるということはだ、「生きた心地」ってものがいったいどうことか、わかるのだと思うんだなあ。

 

そしてそういうことが、正しく生きた心地なんだろうとおもう。

 

いま生きている人間は、ぼくも含めて大方が愚かなのだということを思ったりするのだなあ。

 

 

 

捕食者なき世界 (文春文庫)

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美しき捕食者 サメ図鑑

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月白貉