阿太加夜神社(あだかやじんじゃ)の河童の詫び証文【前編】
国立歴史民俗博物館の編纂している「河童とはなにか」という本によれば、数は多くないのだが島根県内にも河童のような生き物の伝承や遺物の話はいくつか存在している。
別の記事で触れている「宮尾神社の河虎の詫び証文」、そしてぼくがかつて「石見銀山@ディープ - DEEP@Iwami silver mine -」で取材を試みる予定を立てていた大田市の温泉津に残る猿猴の釣鐘の伝承などなど、他にも浜田や江津にも河童の伝承は残っているようだ。
宮尾明神に関しては以下を参照していただきたい。
そして今回はそのひとつである、「阿太加夜神社の河童の詫び証文」について調べてみることにしてみた。
「雲陽誌」の出雲江の項にこんな記述を見ることが出来る。
【風土記】に伊弉奈枳乃麻奈古座とあり、俚民出雲里と書てあたかへと讀、或人のいはく、加茂の競馬の事書たりし文を見るに、出雲江の馬一匹とあるをあたかへと假名付たりと語、しかれは中古よりいひならはせる事にや、出雲江にも阿太加夜の神社を勸請す、故に本名出雲江をいはすして阿太加夜といひけるにや、いまた詳ならす、猶博覧の人に尋へし、
また阿太加夜神社については「足高明神」として記述を見ることが出来るが、宮尾明神のように河童および河虎、猿猴などの記述は残念ながら記されてはいない。
「河童とはなにか」の中の「河童死して手を残す - 河童遺物伝承の整理 -」という項にまとめられた表に、
松江市東出雲町の阿太加夜神社には河童の詫び証文の伝承が伝えられていて、その詫び証文を『松江市竹矢町の平松八幡に預けてある』との記述がある。
またその資料について「国際日本文化研究センター | 怪異・妖怪伝承データベース」からの引用であることが書かれているのでさっそく調べてみると、不確かな内容ではあるが、それらしきものが記述されている書物とその内容の要約が検索に引っかかってきた。岡田蒼溟という人物の著による「河童俗伝」、これは1928年に発行されているもので、どうやら島根県における河童の伝承を多く記したものらしい。以下に該当部分の要約を引用してみる。
河童の宮に祀ってあった河童の詫鉦文を河童が夜に取り返しに来て、詰めを扉で掻くので、八幡社に移してしまった。
原本を参照しているわけではないので詳しいことは分からないが、河童の宮の場所や八幡神社の名前もしるされてはいないので、島根県という以外は場所の特定に繋がる情報ではないことがわかる。これが引用元の記述だとすると阿太加夜神社が「河童の宮」で、先に出てきた「竹矢町の平松八幡」というのが詫鉦文を移してしまった「八幡社」ということになる。
まずはそのあたりから探ってみようと思い、平松八幡という神社を地図で探してみるのだが、松江市の竹矢町に平松八幡という神社を見つけることは出来ない。ただその名前に酷似した神社の名前が上がってくる。
「平濱八幡宮武内神社」という神社がどうやら竹矢町にはあるようだということが判明する。
もしかすると記述の誤りで「平松」と印刷されているのかもしれないと予想してみる。
というわけで、さっそくぼくは大本の河童の宮である阿太加夜神社をすっ飛ばして、河童の詫証文があると言われている平濱八幡宮武内神社に向かうことした。
「雲陽誌」の八幡の項には、この平濱八幡宮武内神社のことが記述されているが、特に今回の河童に関係する記述は見つけることが出来なかった。
さてさて、話はすっ飛び、いざ平濱八幡宮へ。
平濱八幡宮武内神社までの行程途中にもなかなかおもしろいスポットは数多くあったのだが、それはまた別の機会に譲ることとしよう。
神社に到着したぼくは、さっそく情報収集のために本殿および社務所に向かうため、鳥居での一礼を済ませたあとに足早に石段を駆け上がった。するとさっそく本殿の目の前に宮司さんらしき人影を発見したので、すかさず声をかけてみることにした。
後編に続く。
月白貉