宮尾明神の河虎(かわこ)の詫び証文【後編、そして継続】
神主さんのご自宅の玄関先におじゃまして早々、ぼくは今回のフィールドワークの核になる質問を投げかけてみた。
「突然おじゃましてすみません、じつはこのあたりを散策しているものなんですが、この周辺に河童の詫び証文を保管している神社があると聞きまして、なにかご存知でしょうか?」
ここで光速のような早さで事態が進展する。
神主さんは、一瞬「あっ。」という表情を見せてから、すぐにその質問にこたえてくれた。
「ああ、なるほど、河童の詫び証文はねえ、この神社にあるんですよ、公開はしていないのですが。」
ぼくは息をのむ。なんと探し求めていた詫び証文が目と鼻の先にあることが判明したのだ。ぼくの嗅覚もまんざら捨てたものではないなあと、自画自賛してみる。
「あなたは、どこの方ですか?」とたずねる神主さんに、「もともとは関東の人間なのですが。」とこたえると、
「ああ、なるほどねえ、関東のあたりなら河童(かっぱ)ですな、このあたりではねえ、河虎(かわこ)と言います。
もともとその詫び証文はねえ、この神社ではなくて宮尾明神、宮尾神社という神社にあったものなんですよ。けれどその神社が明治の頃に合祀してもうなくなってしまいまして、そこにあった河虎の詫び証文も今はここにあるというわけです。」
神主さんはさらに話を続ける。
「宮尾明神は橋本というところにありましてね、ちょうど朝酌川の脇ですな、あのあたりにね、宮尾橋という橋がかかっていますが、その先に川津小学校があるでしょ、そのいまの川津小学校の校庭のあたりにね、宮尾明神はあったんですよ、明治の頃までね。
けれど今はもう跡形もなくなっています。河虎が詫び証文を返せと言って、よくその神社の戸を引っ掻き回したそうですがね、その引っ掻き傷の付いた戸も、残念ながらもう残っていません。」
なるほど、明治の頃になくなってる神社であれば、地元民に聞きまわったところで、そうそう簡単には情報は集まらないはずである。
「古い話ですからねえ、河虎の話なんかも人伝えになっている間にずいぶんと話の内容なんかも変わってしまうわけですよ、だからそういうものを知っている人間がきちんと文字にして残しておかなければ本当はいけないのですがねえ、こうやって断片をお話することは出来ても、なかなか正確にすべてのことを文章にするというのが私なんかにもそうそう簡単に出来ないわけですよ。そしてそういう古い話を知っているのはわたしのように皆年寄りだから、いなくなったらもう話もなくなってしまうわけですよねえ。」
そうなのだよなあと、ぼくはずいぶん納得する。古文書のように文章化されて残されている事柄なんてものも、じつはその全容の一部でしかなくて、多くのことが誰かの頭の中にしまわれたまま、消え去ってゆくことのほうが多いのだろう。今回の件でぼくそのことを深く痛感した。
そして、今回この記事を読んでいる方がいちばんに気になっている「河虎の詫び証文」であるが、まず結論から言ってしまうと実物を見るところまでは非常に残念だが、たどりつかなかったのである。
期待して読んでいただいた方には「ごめんね。」とお伝えしたい。最後の最後に神主さんに「詫び証文は見せていただけないですよね?」と聞くだけ聞いてみたのだが、その壁を乗り越えることは今回は無理だった。
しかし、ちょっと前には公開した時期もあったし、また公開しようかなというようなことをおっしゃっていたので、引き続きこの回は継続調査ということにさせていただきたい。そしてぼくは、神主さんにお礼を言ってその場を後にした。
「また、来てみてください。」と神主さんは言って、部屋の奥に消えていった。
さいごに、宮尾明神の跡地を見に行くことにしてみた。
確かに朝酌川には「宮尾橋」という橋がかかっており、その先には川津小学校の校庭が見えていた。
せっかくなので川津小学校の校庭のをフェンス越しに眺めてみる。神主さんのお話を聞いたあとなのでなにやら感慨深いものがある。校庭では数人の男子が野球の練習をしている昼下がり。もう跡形も残っていないと神主さんが言っていた校庭には、なにやら不自然に何かの灯籠の残骸のようなものが残っていた。それが河虎伝説の宮尾明神の欠片なのかどうかは定かではないが、その写真とともに今回の壮大な捜索はお開きとさせていただこうと思う。
「河虎の詫び証文」捜索からはじまった物語、ある意味ゴールにはたどりつかなかったけれど、とても大切なことを知ることとなり、かつ心が晴れ渡る清々しい結末となったのである。気づけばその日降っていた雨もいつのまにやら上がり、雲間から太陽の光がさしていましたとさ。
月白貉