ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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宮尾明神の河虎(かわこ)の詫び証文【前編】

江戸時代に書かれた松江松平藩の地誌「雲陽誌」の西川津の項に、こんなことが書かれている。

 

雲陽誌

 

宮尾明神 大己貴命をまつる、本社五尺四方、拝殿九尺 梁に三間、境内皆山なり、祭禮正月三日九月廿五日、古老傳にいわく昔西川津村を西長田村といひし時、猿猴人民をなやまし人皆難儀のことにおもひ、明神へいのりしに或時猿猴馬を川へ引こまんとしたりしに神力にてやありけん彼馬猿猴を陸へ引上たり、折節俚民出合で猿猴をとらへ神前にて石に證文を書、即社内に納をきて今にあり夫より後此里にて猿猴わさわひをなすことなし、此故にこの宮を世人猿猴の宮といへり、猿猴とは俗にいふかわこの事なり、又かわつは又かわ太郎なんと國々にて名のかわりあり、水中にすみて人に害をなすものなり、

 

水草川 【風土記】に見たり、川の徑十二間、水程二十町舟の通あり、川上を海崎といふ、持田村より海崎まての枝川あり、坂本福原東川津この村々よりも海崎まても枝川あり、古老語りけるは昔此邊あらまきと云所に馬をつなき置きしに、川虎とうふもの馬の綱を己か身に纏川に曳入むとしけるに、馬おとろき川虎を陸へ引上はねまいりて持田村まきか島といふ所まて引あけけるを、里人彼川虎をとらへたり、此故に初馬を繋置し所をはらまきといふ、今あやまりてあらまきといへり、馬のはねまはりし處をはねとといふなり、川虎の事宮尾明神の下に委記す、

 

この雲陽誌に出てくる猿猴「えんこう」、川虎「かわこ」と記されているもの、どちらも西川津にいたある生き物の言い伝えである。

 

そう、みなさんも薄々お気付きの通り、俗に言われる河童のような生き物である。

 

水草川(現朝酌川)

 

河童という名前は主に関東地方から東北地方にかけての呼び方であるが、河童の伝承はほぼ全国的にみられるもので、言い伝えやその呼び名は土地によって変化に富むが、共通点も多い。

 

島根県鳥取県だと、猿猴「えんこう」とか河虎「かわこ」という呼び方が主流となっている。

 

河童の伝説につきものなのが河童にまつわる遺物である。例えば河童のミイラだったり、河童の手だったり、河童の残した妙薬だったり。そしてその中でもずいぶんメジャーなのが、雲陽誌にも書かれている「證文」、

 

いわゆる「河童の詫び証文」と呼ばれるものだ。

 

いろいろ調べてみたところ、

 

雲陽誌に記述のある宮尾明神という神社には、いまでもその詫び証文が保管されているというので、

 

いつもの思い立ったが吉日な悪い癖が発動して、さっそく探しに行って見ることにした。

 

さて、どこから探そうかということになったのだが、まずは地元のことに精通していそうな場所で聞きこみをしようと思いたち、雨の降る中、川津公民館をおとずれることにする。公民館内に入ると、さっそくネームプレートを下げた職員の方がウロウロしていたので、「こんにちは!」と声をかけてさっそく宮尾明神の場所を聞いてみると。

 

「さあ、そんな神社はしりませんねえ、私は地元じゃないもので。」

 

というわりとあっさりな対応で終わってしまった。最初からフルスロットルで「河虎の詫び証文はどこですか!?」と聞いても、あまりおもしろくないので、まずは神社のある場所だけを聞いてみたのだが、そんな神社はまったく聞いたことがないとの情報しか得られなかった。

 

ちなみに他の情報筋から、宮尾明神の参道は「天馬坂」と呼ばれる坂道になっているとの情報も得ていたのでその件に関してもたずねてみたのだが、一向に場所の特定につながる情報は得られなかった。

 

「交番で聞いてみるのがいいですよ。」

 

とあっさり言われたのだが、う〜む、ぼくの予想からすると交番で解決する話ではないような気がしたし、フィールドワークの展開としておもしろくない。というわけで、一旦振り出しに戻って考えてみることにした。言い伝えの残る周辺の神社の場所は予め下調べをしていったのだが、宮尾明神、または宮尾神社という名前はまったく見当たらなかった。しかし、たまたまその前日に読んでいた書物に、偶然ではあるが西川津の河虎の詫び証文のことが書いてあったことを思い出した。そこには、詫び証文の保管場所として複数の神社の名前が連ねてあり、現物の有無については『未確認』という印が付けられていたのだ。 

 

ぼくはある程度のあたりをつけて、その中に名前のあったある神社に行ってみることにした。もしその神社に神主さんがいれば、なにか宮尾明神についての情報が得られるかもしれないからだ、餅は餅屋である。

 

地図を頼りに裏山の旧道のような道をテクテクと歩き続けたどりついたのが、これも西川津町にある「推惠神社」と「熊野神社」である。

 

さっそく両神社の境内に赴き散策をしてみるのだが、神社内はシーンと鎮まりかえっていて人っ子一人いない。「河虎の詫び証文 →」みたいな立札も残念ながら立ってはいなかった。 

 

西川津町の旧道

 

なんの情報も得られないまま突き当りにぶつかってしまったなあと腕組みをして考えながら元きた道を戻っていると、住宅街でひとりの男性とすれ違う。いったん軽く挨拶をして通りすぎるのだが、やはり地元民に聞くのがいちばんであろうと思い、振り返って声をかけてみる。

 

「宮尾明神なんて神社は知りませんねえ、神社ならほらそこに、熊野神社と推惠神社ならありますけどねえ、ちょっとわからないなあ。」

 

なるほど、やはりこのあたりではなくもっと別な場所なのだろうかと考えながらその男性にお礼を言い歩き出そうとすると、

 

「神主さんの家ならそこですよ。」

 

と、とても重要な情報を教えてくれる。まったく手がかりがつかめない中で、光り輝く餅情報をもつ餅屋の存在がここにきて出現する。早速ぼくは、その神主さんのご自宅をたずねてみることにする。

 

教えていただいた場所にある家の入口には張り紙がしてあり、「ご用の方はチャイムを押してください。」と書いてあるので、その通りにしてみるとすぐに奥から「は〜い。」と声が聞こえる。現れたのは完全に重要な情報を握っていそうな年配の神主さんだった。

 

神主さん

 

後編へ続く。

 

 

 

雲陽誌

雲陽誌

 

 

 

 

月白貉